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~シリーズ合理性~その3「武器・武器取り」を考える


先のその2「反則技」に学ぶでも述べました通り、武器は合理的なものです。 その武器がある状況を合理的に考えてみますと次のことがいえると思います。 ①選択肢の問題:武器を持つということは、その武器を使うことになり、その点では選択肢が狭くなる可能性がある。 ②対武器の問題:武器を持つということは、相手も武器を持ち出す可能性がある。 ③武器取の問題:武器をもつということは、その武器を相手に奪われる可能性がある。 ①の選択肢の問題では、その武器の使い方をよく稽古するしかありません。 私が高校生の頃、ブルース・リーに憧れてヌンチャクを買って練習したのですが、はじめの頃は自らの頭や脛をしたたかに打って悲鳴を上げたものです。 そんな状況でヌンチャクを持ち出して戦えば、おそらくヌンチャクを持っていないときの方がずっとマシな戦いぶりとなるでしょう。 どんな武器でも、その使い方をよく練習しておかないと、上手く使えないものです。 また、どんなに使い方を習熟しても、その武器にはその武器の使い方の範囲があり、それ以外の可能性は無いといえます。 武器を持っていればそれだけで優位というわけではなく、戦いの場に武器を持ち込むことの意味を良く考えておく必要があります。 ②の対武器の問題は、相手もこちらも武器をもっている状況です。 これも武器対武器の状況に慣れる必要があります。 一般的な剣術・武器術は、この武器対武器の体系です。 それ以外にも、身辺にあるものを武器として利用することについても考えることに繋がります。 ボールペン、ほうき等使えそうなものをいかに使うかということを考えることに繋がります。 ③の武器取の問題は、武器対徒手ということになります。 徒手の立場としては、身近に武器となるものもなく、武器を持つものに対抗する状況です。 一方、武器を持つ立場としては、優位にたっている様ですが、その武器を奪われれば立場は逆転することを忘れてはいけません。 また、使う覚悟の無い武器を持ち出せば、威嚇にはなるでしょうが、もしその武器を奪われれば最悪の事態といえるでしょう。 昔、ある事情があって護身用の小さなスタンガンを買ったことがあります。 練習の為に、スタンガンを自転車に使ってみたところ「バチッ!」という大きな音と衝撃で驚きました。 こんな怖いもの使えなと思い、タンスの奥にしまい込みました。 武器を相手に見せるときは、使うと決めたときでなければいけませんし、相手が武器を見せたら使う覚悟があると考えた方が良いでしょう。 合気道には、短刀、太刀、杖などの武器を持つ相手に対する武器取りの型があります。 指導者によっては、拳銃を突きつけられた際の型を行う場合もあるようです。 私にとっては合気道における武器取りの稽古は、体術をより洗練するための鍛錬法としての意味合いが強く、護身術としてはあまり意識していません。 昨今は日本刀で斬りかかられる(という事件もありましたが)よりも、マシンガンで遠くから無差別に撃たれる事件が多く発生しており考えさせられます。 実は、私は拳銃で数メートルの距離から撃たれるのを捌けるかどうかを、子どもの銃のおもちゃで試したことがあります。 数メートルの距離から子どもに私を撃たせます。スポンジの弾が飛び出すおもちゃの銃で、弾は見えるのですがとても躱せませんでした。 なるほど、ほとんどの護身術の銃を相手にした型が、至近距離で銃を突きつけられた状況を想定している理由が解る気がします。 武器取りの稽古については、私の考えでは、まず自分自身がその武器を使い慣れていなければならないと考えています。 その武器の特徴と使い方を知ることが大切だと思います。そうすれば、良い稽古相手にもなれるし、武器を使う相手の気持ちもわかるというものです。 ですので、短刀、太刀、杖の素振りを行うことが大切だと考えています。これとは別に、素振りについては身体の使い方を練る上でもとても大切だと思います。 ですので同様に、銃取りを稽古するのであれば、自分自身が銃を扱い慣れることが大切です。 銃の仕組みや性能、使い方を知って初めて銃取りに移行できるものと考えています。 同じ飛び道具でも、弓は1万年も前から人類と共にあり、生活に溶け込んでいたはずです。 にもかかわらず、様々な体術や剣術等で対弓の型が見当たりません。 (ハワイの武術には相手が投げてくる槍をキャッチする技があるようですが、弓ではありません。) おそらく古来より、弓であってもとても避けきれるものではなかったのではないでしょうか。 植芝盛平開祖が複数の銃弾を躱しておまけに撃った人を投げ飛ばした話は有名です。 なんでも相手の撃ってやろうという気が光の玉となって飛んで来て、鉄砲の玉はそのあとから飛んでくるので簡単に躱せるのだそうです。 ただし、その話を聞いてやってきた猟銃の達人と対峙した時は、光の玉と鉄砲の玉が同時に来るから躱せないと、開祖は猟師を止めたそうです。 達人は達人を知る逸話です。 この光の玉が一体何なのかを私なりにずいぶん考えました。 ヒントは、相手の「やる気」が光の玉になるというところだと思うのですが・・・。 さて、「合理性」を軸に、機能美、反則技、武器について考えてきました。 合理的であるこは、「考え続ける」ということだと思います。 高専柔道の言葉に次の様な言葉があります。 腕の力は、脚の力には敵わない 足の力は、考える力には敵わない

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