私にとって、合気道は芸術です。 私にとって、芸術とは創作であり表現です。 何を創作し表現するかというと、自己の内面の、言葉では表現し難いものが対象です。 それを具体的な技として具現化することが、私の合気道です。 この芸術を支える軸となる思想や哲学が私にはあります。 しかし、思想や哲学がどんなにしっかりとしていて立派であっても、それを具現化できなければ芸術とはいえないと思います。 見たり、聞いたり、触れたり、読んだりして感じることができなければ芸術とは言えないと思うのです。 合気道であれば、その技が、それ相応の効力を発揮するものでなければなりません。 その上で、その技を見たり触れた人が感動するものであれば良いと思っています。 あらゆる芸術の各分野にはそれぞれの技法があります。 楽器の弾き方、絵の具の使いかた、文章の構成方法、踊りのステップなど、いろいろな技法があります。 これらの技法は、先人たちが試行錯誤の結果、有効なもの、理にかなったものを型として残したものといえます。 しかし、これらの技法はあくまでも手段に他ならず、目的ではありません。 目的はあくまでも、自己の中の「何か」を具現化し表現することだと思います。 先に述べた、思想や哲学でさえ、その「何か」を述べるための手段に過ぎないのかもしれません。 合気道に限らず、あらゆる芸道において、まず初めに基本の技法を習得することを行います。 初期の段階では技法の習得が目的となる訳です。 習得した技法を行う時、修業の段階等によって、同じ技法の現れ方に違いが生じます。 例えば、バイオリンの演奏家が同じ楽譜を同じ技法で弾いても、人によって、または過去と現在とで、現れる音色に違いが出てきます。 これは、どんなに技法や型で縛られていても、そこには個人の「即興」の余地が残されているということです。 その即興性が、異なる音色や作品を生み出すのだと思います。 そして、この即興性にこそ、芸術の根本が潜んでいる様に私は思います。 型の守破離や合気道における武産(たけむす)というものも、この即興性に関係していると思います。 合気道には自由技というのがあります。 自由技というと、次は一教、次は入身投と何か知っていることを思い出しながら順番に行うものと捉えている方もいらっしゃるかも知れません。 しかし、私の考える自由技とは、即興性を鍛錬することです。 ですので、既知の動きをなぞるのではなく、その時その時に新しいものを生み出すということです。 音楽のジャズの様なものだと思います。 開祖植芝盛平先生が仰った武産(たけむす)ということも、その時その時に理にかなった新たな型(武)を産み出すという意味です。 合気道には試合はありませんが、この自由技という鍛錬法で即興性を鍛錬しているのです。 では、人の即興性を導く原動力は何でしょう? その原動力となるものを、私は「気分」だと思っています。 ”気持ち”でも”考え”でもなく、「気分」です。 ここでの「気分」とは、心の風景や音色のようなもので、一言で表せるような”感情”とも違います。 「心の状態」といえば最も近いかもしれません。 この「気分」というものは私の合気道にとってとても重要なものです。 この「気分」を直接見せて伝えることができれば、もう技法は必要無いのではないかとさえ思うほど重要だと考えています。 しかし、矛盾するようですが、この大切な「気分」に至るためには、体の姿勢や呼吸、肚といったことがとても深く係わっていると感じます。 そして、姿勢・呼吸・肚というものは技法の習得を通して体得していくものですので、これらは切っても切れない関係の様です。 心技体とはよく言ったもので、 心:気分 技:技法 体:姿勢・呼吸・肚 と整理することができます。 話を戻します。 私自身、何年も師の技を見て、ひたすら真似ていく内に、師の気分が自分に映った様に感じることがありました。心が同調する様な感じです。 師の立ち方、足先、指先、間合い、緩急、表情などを細かに観察し1つ1つ丁寧に真似て行きます。 それを続けているうちに、あぁ・・・こんな気分で師は行っていたのか・・・と直感する瞬間がやってきます。 そのようにして得て来た、私の「気分」が、果たして師の「気分」と同じものかどうかは分かりません。 おそらく違いもあるはずですし、それで良いと思っています。 ただ確かなことは、その私の「気分」が、とても良いものであるということを、直感的に強く感じるというだけです。 ただし、まだまだこれから稽古を進めて行くことで新たな良い「気分」に至ることを求めています。
技法を行う上で、「気分」を込めるということがとても大切だと感じます。ただ、線をなぞるように行うのではなく、「気分」を込めて行うことで技法が活き活きとしてきます。それだけでなく実際にその技法の効果も変わってきます。長年稽古を重ねて来て、十分に技法が身につき、身体が練れている人でも、見ていて何か物足りないなということがあります。そんなときに、そこに「気分」を注ぎ込む様働きかけることで、まるで技法に命が吹き込まれる様に先程と見違える変化を起こすことがあります。まるでしぼんだ風船に空気が注ぎ込まれる様に。それは、先程と同じことを行っている様でも、細やかなところで大きな変化が起こっているからです。「気分」が「気勢」「気合」を呼び起こし、その人自身を覚醒させているのだと思います。
ここで、オイゲン・ヘリゲル著「無我と無私 ―禅の考え方に学ぶ」(藤原美子訳 ランダムハウス講談社)より、弓道の阿波師範の言葉を紹介します。 『 師範は前に進み出て、的を射る模範を示してくれた。両矢とも的の黒い所に当たった。師範は、まったく今まで通りに儀式を行うように、そして的に惑わされることなく射が「落ちてくる」まで弓をいっぱいに引き絞って待つように、と言った。私の射ったか細い竹の矢は正しい方向に飛んだものの、垜(あずち=土台)にすら当たらず、その前の地面に突き刺さった。 師範は批評して言った。「矢が向こうまで届かないのは、精神的に充分、遠くまで行っていないからです。的が無限の彼方にあるように射なければなりません。立派な射手は中位の強さの弓を使って、魂のこもっていない射手が最強の弓で射るよりも遠くまで射ることができます。弓のせいではありません。心の存在、つまり射る時のバイタリティーや覚醒状態のせいです。精神をことごとく覚醒させるためには、「儀式(※ここでは型と考えてよい)」」を今までとは違ったやり方で行なわなければなりません。上手な舞手が舞う様にです。そうすれば、動作は中心から、すなわち正しい呼吸が行なわれる座から湧き出てきます。暗記したように「儀式」をすらすらと行なうのでなく、あたかもその瞬間のインスピレーションで創造するかのようになると、舞手と舞手が一体となるのです。神楽舞のように弓道を行うと、覚醒した精神は最高の力を発揮するようになるのです。」』 つづけて、最後に芸術家の岡本太郎氏の言葉を2つ・・・ 『不動のものが価値だというのは自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎないんだよ。破壊こそ創造の母だ。』 『でたらめをやってごらん。口先では簡単にでたらめなら、と言うけれども、いざでたらめをやろうとすると、それができない。 気まぐれでも、何でもかまわない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、そのときやりたいことに手を出してみるといい。不思議なもので、自分が求めているときには、それにこたえてくれるものが自然にわかるものだ。』