子供の頃、大人たちが医者のことを「先生」と呼んでいることに違和感がありました。 その頃の私にとって先生とは学校の先生のことで、どうも医者はそんな風には感じなかったからです。 そのことについて母親に話した気もしますが、母親が何と答えたのかは覚えていませんが、納得の行く回答は得られなかったと思います。その後、医者だけでなく、弁護士や政治家など、多くの「先生」が存在することを知り、大人の世界とは妙なものだなと感じていた記憶があります。 私達は、病気、災害、孤独、競い、争い等、様々な困難な状況において不安になります。 そして、不安な自分を支えてくれるもの、頼りとなるものにすがることもあります。 病院や薬、救助や支援、仲間や組織、法や暴力といった具体的な効力や解決策をもつものもあれば、 宗教や権威、ブランドや名声、流行や慣習など、それに従うこと等が安心につながるものもあります。 「虎の威を借る狐」 と言えば、卑怯、姑息、といったあまり良い意味ではないことを連想します。 「人という字は、人と人が寄りかかり合っている様子」 と聞けば、逆に良いイメージがあります。 ところで、武道が想定している不安な状況とはどのようなものでしょう? それは、いわゆる絶体絶命な状況ではないでしょうか。 たった一人で、逃げることもできず、助けを呼ぶ手段も時間もなく、追い詰められ切迫した状況です。 相手の狙いが私の命であり、相手が捨て身でその後の人生を捨てて掛かってくるとしたらどうでしょう? この状況下では、宗教や権威、法律や組織等は、残念ながら何も助けてはくれないと私は考えています。 そして、このような絶望的な状況を出発点として武道の修業が始まるのだと思います。 では、武道を修業する私達は、このような状況で何に頼ることができるのでしょうか? 極シンプルに考えると、私達は、その状況の中にあるものにしか頼ることはできないのだと思います。 その状況に確実に存在しているもの、それは「自分」と「相手を含めた周囲の環境」の2者のみです。
それに頼るしかないのです。 わかりやすくするために、「相手(敵)」と「周囲の環境」を分けて考えてみますが、この「相手」と「周囲の環境」は同じものだと私は考えています。 「自分」に何があるか?・・・駆使できる体格、技量、発想 「相手」に何があるか?・・・敵対心や勢いはどれほどのものか?何人か?何を持っているか?などなど 「環境」に何があるか?・・・私や相手の服装はどうか?視界や足場、障壁はどうか?武器になるものはあるか?などなどきりがありませんが頼れそうなものがいくつか思い当たります。
ただし、どんなに上手にこれらのものに頼っても、結果的に助からないこともあるでしょう。 最終的に自らの命を奪われる状況になったとき、今の私に思い当たる頼れるものは「覚悟」しかありません。 普遍的に常に頼れる確かな懐刀は私自身の「覚悟」なのです。 「自分」はどこまで覚悟ができているのか?もしくは、できていたのか? 自分が止むを得ず命を落とす時、何が不安なのか? 私の場合は、この世への未練だと思います。 私の家族のこと等が未練となりそうです。次に相手に対する憎しみや、死の恐怖もあるでしょう。 そう考えると、これらの未練・憎しみ・恐怖さえも、真の覚悟を得る上では邪魔なのかもしれません。 私は家族を捨ててまで真の覚悟を得たいというところまでは残念ながら?私の人生では行けそうもありませんが、究極はそういうところなのだと思います。 過去のことになりますが、私は遺書を書いていたことがあります。それは覚悟をきめる為だったのですが・・・。 ところが、遺書を書くと、今度は遺書に書いた内容が気になりはじめ、あの内容は今の心境とはちょっとちがうなぁとか、逆にいろいろと迷いが生じて、これでは本末転倒と、結局は遺書を破って捨ててしまいました。 そんな遺書を書くくらいなら、毎日伝えるべきことを率直に伝えておくことが大切なのだと思います(それがまた難しいのですが…)。 さて、「頼る」ということから「覚悟」の話になってしまいましたが、日常の稽古の場面に話を移します。 私達は、日常の稽古において、何に頼っているしょうか? 特に申し上げたいのは、次のように、稽古の場において、私達は権威や慣習等に頼っていた場面が色々と思い当たるということです。 ・「(テキスト等の)書物にかかれています(だからこのやり方が正しい)」 ・「○○師範はこの様に行います(だからこのやり方が正しい)」 ・上級者の人に「これで良いですか?」と尋ねる ・みんながやっているので、それで良いと思う ・暗記するのが困難な型を覚えた ・自分は黒帯だ、高段者だ、弟子だ、師範だ ・自分は何十年も稽古を続けている ・自分は様々な流派や芸の知識を持っている これらは稽古を始めて数年の初期段階では良いと思います。 しかし、先に述べた絶体絶命の状況下では何の役にも立たないことを思い出すと、いつまでもこんなことに頼っていたのではいけないと思います。 では、私は、何を頼りに稽古を進めて行けばよいのか? それは、先に述べた「自分の覚悟」だと思います。 私は私の覚悟に頼る・・・では具体的に何を覚悟するのか? それは「相手を含めた周囲の環境」に対しての覚悟だと思います。 「相手を含めた周囲の環境」に「完全に頼る覚悟」ではないかと思います。 「頼る」ということは、支える者と支えられる者が1つのバランスを形成することです(人という字の様に)。 実は、頼られている方も、頼っている者によって支えられているはずです。 例えば、どんなブランドや権威も、それを頼る者によってその存在価値を保たれている様に支え合っています。 頼る対象が過激な思想や宗教等のこともありますが、それが原因で様々な問題があったことは知られています。 覚悟をきめて頼っていれば問題が無いということではなく、問題があるとすれば、それは頼り方に問題があるのではないかと思います。 私達は産まれてすぐは目もよく見えず、歩けず、母親だけが頼りです。 その1つの頼りを足がかりに、2つ、3つと頼れるものを増やして行きます。 自分の身の回りのものに掴まり、やがて2本の足で立ち上がります。 成長とともに社会に出て行き、様々なつながりを得ます。 そして、そのうちに「自立」したと感じる様になります。 頼るということは「依存」と言い換えることができます。 「自立」と「依存」は対義語として認識されることが多いと思います。 自身が脳性麻痺でありながら医師の熊谷 晋一郎氏は、自らの体験を元に「自立とは依存先を増やすこと」と述べています。 1本の柱に支えられている者はその柱が折れると、たちまち倒れてしまいますが、1本1本が細くても多くの柱に支えられている者は、その内の何本かが折れても倒れることはなく、新たな支えを探すことができます。 その様に、自分がなにかに頼っていると感じないくらい多くの支えに少しずつ頼っている状態を自立と呼んでいるのです。 なるほど、このように考えれば、「自立」とは理想的な「依存」の状態であるといえそうです。 1つのものに頼るのではなく、できるだけ多くのものに頼ること。 自分の周囲のあらゆるものに頼る、敵にさえ頼る、自分を支えてもらう、おまかせする、という覚悟。 ですので「頼る」ということは「調和する」ことと言い換えても良さそうです。 自分を取り巻く全てのものと調和して、完全に頼り切る覚悟ではないかと思います。 完全に頼り切る、我が身も命も全て預ける、それは即ち捨身の覚悟だと思います。 先に、過激な思想や宗教と申し上げましたが、それらに頼るときに問題があるとすれば、それは本当の覚悟がなく、それゆえ周囲に、社会に、迷惑に当たり散らすような行為を行うことでしょう。 それらの行為は、その人は建前上その思想や宗教のみに頼っていると言いながら、実際は周りに当たり散らすことで頼りたがっている、甘えたがっているのだと思います。捨身になれていないと感じます。 仏教の天台宗に千日回峰行というのがあります。比叡山で7年間かけて行われる非常に過酷な行です。 この行に挑むには「死」を覚悟していることが前提条件で、途中で行を続けられなくなったときに自害する為の首吊り紐と短刀を持ち、白装束をまとい、自身の埋葬料10万円を携行します。 この行を行を達成した者は阿闍梨(あじゃり)と呼ばれるそうですが、この行を2度おこなった酒井さんという方がいらっしゃいました。酒井さんは、戦争を体験し、様々な仕事に失敗し、妻に自殺され、散々な人生を歩んだ挙げ句、39歳で得度し千日回峰行に挑みました。恐らくは自らを絶つ覚悟で行に挑んだのだと思います。 とても孤独な行ですが、それでも、京都の町中を歩いて人に逢ったり、後ろから押してもらったりと、多くの人に支えられています。 この千日回峰行を取り上げたドキュメンタリー映像があり、今ではインターネットで見ることもできます。 阿闍梨を支えているのは、人だけではなく、酒井阿闍梨の時は、数匹の犬達が酒井阿闍梨をイノシシなどから守りつつ一緒に歩いていて、これはなかなか見ものでした。犬から群れの一員として認められるとは。 人や犬に支えられるだけでなく、宗派や千日回峰行や阿闍梨という型に支えられているとも言えますが、この行の目的は、この世のすべてのものが仏であることを自覚することだといいます。 これは、この世のすべてに支えられ頼っていることを自覚することと言い換えても良さそうです。 死を覚悟して捨身になって、この世のすべてに頼っていることを悟る。 実は、覚悟しなくても、もともと頼っていたところを、覚悟することでようやく自覚できるということかもしれません。 自分の欲や見栄のためになにかを利用する様に頼ることは慎みたいものです。 一方、どんなに欲や見栄を捨てても、もともと存分に支えられていたことを識ることは大切だと思います。 稽古の話から逸れてばかりですが、自分が何に支えられているのかを一つ一つ見つけながら稽古したいと思います。 今日もこれから稽古です。 近所の犬たちが私の稽古に来てくれるまでは、まだまだ修行が足りないようです。