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執筆者の写真田中 利幸

「謙虚」ということ


実るほど、頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂(いなほ)かな この言葉は、私が二十代の頃、妻から度々言われた言葉です。 良く実った稲穂ほど、その重さで穂先がお辞儀をする様に下へたれます。 もともとは、妻の祖母が座右の銘としてこの言葉の書を妻へ贈ったものがありまして、妻はこの言葉を祖母から教わったそうです。 妻と結婚してからも、その書は見えるところに飾られているので、私はこの言葉にたしなめ続けられているという訳です。 若い頃の私は、今よりもっと虚勢を張り高圧的で攻撃的でした。 その様な私の態度を見かねた妻は、度々私にこの言葉を私へ淡々と話していた様に思います。 道場においても、生意気で鼻につく若者と思われていたに違いありません。 「にーちゃん、だいぶ丸くなったな~、以前見たときは、目つきがほんまヤカラやったからな~、なんやこいつと思うとったんや」 と関西での稽古後の飲み会で、年配の方に言われた記憶があります。ヤカラ(輩)とは関西ではチンピラやヤクザ者といった意味です。 おそらく当時の私は、周囲に負けまい、従うまいと虚勢を張っていたのだと思います(今でもそうですが・・・)。 それ故、稽古でも、しばしば稽古相手と衝突することもあり、互いに不愉快で悔しい思いをした記憶があります。 よくもまあ、そのような私であっても、これまで出会ってきた合気道の皆様は辛抱強く受け入れ相手をしてくれたものだと、その優しさと暖かさに、恥ずかしさと感謝の念をおぼえます。 さて、稽古を続けていると、より上達し深い境地へ至るには「謙虚」さが非常に重要であることを痛感することがあります。 最近でも、子どもを相手に稽古しているときに、その子が思いがけない技を繰り出し、こちらは思わず倒されて驚くことがあります。 その子の受けを取る私の心に隙(スキ)があったのだと思います。 上手くやって見せようとするあまり、かえって力みが生じ上手く行かず気持ちが焦ってしまうこともあります。 その様なことがある度に、謙虚さが足りなかったのではないかと反省させられます。(ありがたいことです) では「謙虚」とは何でしょう? その意味と対義語をインターネットで調べてみました。 【謙虚】自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること。 【対義語】  横柄:態度が大きく無遠慮なこと。  高慢:高ぶって人を侮ること。  傲慢:威勢を張って人を侮ること。 (これらの意味を読むと、いまだに心にグサリと刺さり落ち込んでしまいそうです) これを読むと、自分に対する認識(偉いなど)と、相手に対する認識(侮りなど)、自分と相手の上下位置の認識が関係していることがわかります。 しかし、相手と比べて自分を相手より低くすれば、それが謙虚なのか?と考えますと、それもちょっと違うのではと思います。 なぜなら、そこには自分の尺度で相手を測っているところがあるからです。 相手を測ること自体が既に相手を侮っている様で謙虚とは思えません。 私は、謙虚さとはその様な相対的な感覚ではなく、もっと絶対的な自分の在り方についての言葉だと思います。 私が思うに、謙虚さとは、本当の厳しさだと思います。 自分に対して偽りなく正直に自分を見つめて自分を正す厳しさのことです(その様に妻から叩き込まれた様に思います)。 やたらとへりくだってペコペコすることでも、なんでもかんでも従うことでも、ただ媚びたり詫たりすることでは無く、自分に対してどうなのか?ということです。 どんなに礼儀正しく丁寧であっても、心のどこかで相手を侮っている自分があるかもしれません。 どんなに謙虚そうに振る舞っていても、心の底でくすぶる侮りがチラリと顔を覗かせることがあります。 先に書いた、横柄、高慢、傲慢な自分を正直に隠さずに認めることから、謙虚さへの1歩が始まるのだと思います。 相手と自分を比較するためには相手に意識を向ける必要があります。 そうすると自分が見えなくなります。 自分が見えなくなるので、深い境地へ向かうことはできなくなります。 稽古を深く進めるためにも謙虚さはとても重要なのです。 ・・・と、厳しいことを書き続けても仕方ありません。謙虚になろうと思ってなれる様なら困らないのです。謙虚になりなさいと言われてなれる様なら楽です。 なぜ、謙虚になれないのか?をもう少し考えてみたいと思います。 謙虚になれない、すなわち横柄であったり、高慢、傲慢であること、相手を測ること、相手を侮ることは、いったいどこから生じるのか?ということです。 そこにはまず相手との比較があり「人より上に立ちたい」という心理が元にあると思います。 ではなぜ「人より上に立ちたい」のか? それは、人と自分を比べることで自分の価値を示したいのだと思います。 ではなぜ人と自分を比べなければならないのか? それは「自分に自信がない」からなのだと思います。 では「自分に自信がない」とは言い換えると、 「今の自分の価値を自分で認められない」ということではないかと思います。 ではなぜ今の自分を認めることができないのか? このことは、最近よく耳にする「自己肯定感」の低さという言葉に置き換えることができます。 「自己肯定感」を紐解く時、その人の生い立ち、人生が深く関わってきます。 その代表例といえるのが「無条件に認めてくれる親の愛情」というものです。 無条件に自分の価値を認めてもらう経験が必要だということです。これは親にかかわらず家族や友人でも同じことが言えると思います。 「自己肯定感」というのは比較する対象が不要な絶対的な価値観です。 そしてこの「自己肯定感」が足りなければそれを補うために、相対的な価値観、他者との比較を求めてしまうのです。 世の中に完璧な人間など居ないと思います。 ですので絶対的な「自己肯定感」だけで満たされている人も居ないはずで、誰もが相対的な価値、他者との比較を求めるのだと思います。 ではどの様に謙虚さに取り組むのか? 1つは、自らの内にある相対的価値への欲求を厳しく見つめていくことだと思います。 稽古の場であれば、 ・相手のやりかたが違うと決めつける・・・(自分の技で相手を魅了してみては?) ・相手に教えたくなる・・・(自分の素晴らしい受けと取りでお手本を示せば?口は使わないで) ・相手にやりにくくしようとする・・・(後出しジャンケンで勝って喜ぶ?) ・すごいところを見せようとする・・・(いつ、どこで、だれに見せても恥ずかしくない立派な技?) ・本気で取り組まないで相手にしないそぶりをする・・・(いつ、どこで、だれに見せても恥ずかしくない立派な態度?) ・子どもだから、若者だから、女性だから、白帯だから、自分のほうが上だ・・・(では、高段者の高齢者男性とだけ稽古してもっと上達しましょう!) ・今の技は上手いことやられた!・・・(真似してみよう) などなど、まだまだありますがこういった自分の気持ちを正直に見つめることです。 しかしこれだけだと厳しいばかりで息がつまりそうです。 これと同じか、それ以上に目を向けたいのが、絶対的価値を強化すること、自らを認めて癒やしていくことだと思います。 ・黒帯の人と稽古するのは申し訳ない・・・(だれもがはじめは白帯でした、あなたが黒帯になったら白帯の人と稽古しないの?) ・自分が皆の足を引っ張って迷惑をかけている・・・(道場は失敗するところです) ・むずかしい、わからない・・・(だから稽古するのです、上達には時間がかかります) ・間違っているかも?教えてほしい・・・(その教えてくれる相手も間違っているかも、自分の目で見て、自分で考えて良いのです) ・痛い、怖い、いじわる・・・(きっぱり断ってOK、そういう相手は避けましょう) ・人によって言うことが違う・・・(おそらく皆大して何もわかっていないのです) ・首をかしげたり、苦笑いしたり・・・(首の動きでバランスが変わります、表情で心が乱れます、気持ちはわかりますが) そして、さらにもう1つほしいのが、「本当の優しさ」です。 これは言い換えると、「相手の存在を対等な存在として無条件に認める」ということです。 老若男女白帯黒帯にかかわらず対等な存在として認め合うということです。 意識的になにかを与えたり譲るのでもなく、ただ存在を認めるということです。 その様な人の集まりには自然な癒やしの力が宿ると思います。 私自身が、これまで出会った合気道の仲間たちの中で、そうやってゆっくりと時間をかけて何か癒やされてきた様に今になって思います。 無意識に自然と癒やし癒やされる関係が道場にできれば良いと思います。 <私の稽古態度(言い訳も兼ねて)> 最後に、私の稽古時の態度を司っている私の心理をご紹介します。 謙虚であろうと私なりに如何に取り組んでいるのかということです。 私は稽古の指導をさせていただくときは、私にできる最高のことを紹介したいと考えています。 そのために色々と稽古方法を工夫して、口頭での説明も致します。 相手の学ぼうとする姿勢にもよりますが、相手によっては「そうではなくて、もっとこうしたほうが良い」などと指摘することもします。 しかし、私が指導をしていない稽古の場では、私は人に教えるといったことはまず致しません。 流石に、正面打ちの時に片手取りが来たらそれは言いますが、指導的なことは言いません。 時には相手の人に「これでいいのでしょうか?間違ってませんか?」と尋ねられますが、それでも気まずく微笑んで何も言わないか、せいぜい「いいんじゃないですか?」と言う程度です。 これは何も意地悪をしているわけではないということをこの場をかりて断っておきます(これを言いたかったのです!)。 その時私にできることは、相手の受けを精一杯真剣に取り、無心に力を抜いて取りを行うことに最大限集中することだと考えています。 もし、私になにか尋ねられても、何も答えない代わりに、私の受けや取りをどうぞ盗んで下さいと思って取り組んでいます。 人から教えられて分かるよりも、自ら見て考えて学び取る能力がとても大切です。 また私は稽古相手を選びません。それは「○○さんと稽古したい!」と考えることは、○○さん以外の人の存在を軽視していることの様に感じるからです。 また、合気道の上達の上でも、どんなことをだれと行ってもそれなりにできることが好ましいと考えていますので自分を鍛えるためにも相手を選ばないのです。 ですので、たまたまタイミングが重なって複数の人と礼をしそうになっても、距離や向きが近い人を選んでいる程度で、好みで人を選ぶことはしていないつもりです(これも言っておきたかったことです!)。 ただし、稀に稽古中に私に教えて来る人が居れば「あなたの教えを受けにきたのではありません。」と一言申し上げることにしています。 稽古で先生の受けを取らせていただくことについて、先生の受けは弟子が取るべきで、だから弟子は先生の近くに座っているという考え方がある様ですが、私はそうは思っておりません。 私が先生の近くに座るのは良く見えることと、運がよければ受けに呼んでもらえるからです。 ですので、白帯だからとか、そういうことは関係なく、誰しももっと前にでてよく見える様に、先生の受けを取らせて頂ける様に振る舞えば良いと思います。 先生の受けを取ることはとても良い稽古になります。その感覚を体に染み込ませるチャンスなのです。皆がもっと積極的に前に出ると良いのにと思っています。 秋なのに、未だ実らぬ、私の稲穂

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