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執筆者の写真田中 利幸

誠の心(稽古に臨む姿勢)


 同じ道場内で共に稽古に取り組む仲間でも、ひとりひとりの稽古に取り組む姿勢は異なります。

 取り組み姿勢が異なっていても、相手に嫌な思いをさせないように稽古に取り組むことは最低限守りたいことです。同時に、自身の修業をより深みのあるものへと成熟させていく上で、自分自身の稽古にどのように取り組んでいくのかということも大切なことです。

 ところで、試合がある武道やスポーツが多い中、合気道には試合はありません。

 試合について考えると、次の要素があります。

 ・ルール(装備、時間、場所、反則など)

 ・審判(客観的判断、強力な権限を持つ第3者)

 ・勝敗(優劣、順位)

 ・観衆(応援、非難、関心)

 これらの枠の中で優劣を決めることで、誰が見ても納得ができる客観的で安全な競技として成立させているのです。ルールと審判により、嘘のない勝敗が決められ、不特定の観客がそれを見守っています。

 では、合気道の様に、試合がないということはどういうことでしょう。

 それは、ルールがなく装備や時間・場所は自由で反則はなく、他者の介入がないということです。

 もしこの状態で勝敗を競えば互いに命をかけた勝負になる可能性があります。

 このように考えると、試合がないということは本来は厳しいことのはずです。

 しかし、実際には試合がないのを良いことに、楽な方へ流されてしまうことも少なくないのではないでしょうか?

 自分自身が隙だらけなことに気が付かないで受けを取らないことが強さだと言わんばかりに頑張っていたり、逆にそれほどのことをされていなくても華麗に派手に受けをとったり、段位・年齢・性別等で優劣を決めたり・・・これらは全て楽な方へ流された結果だと思います。

 ここで誤解しないで頂きたいのは、試合がないのだから厳しい稽古をしなければならないということではありません。相手構わずきつい技を掛けたりするということではありません。

 相手のレベルに応じて手加減をして、互いが最も向上できる稽古にすることは必要です。

 では、何に厳しくあるべきなのか?

 それは「自分に対して正直であることに厳しい」ということではないでしょうか。

 合気道の稽古の中は嘘だらけです、と言って良いほど、実は私達は自分でも気が付かない内に、なんとなく相手に合わせたり、相手がやりにくいようにしたり、相手を痛めつけたり、はじめから優劣を決めていたりしています。

 嘘の1例として、例えば、合気道の稽古は、主に受けと取りを交代しながら行います。受けが取りに対して攻撃をしかけ、取りがその攻撃をさばきます。この時、取りが攻撃をさばき安いように受けの方が取りにタイミングを合わせるということがあります。本来、合わせるのは取りの役割であり、受けが行うことではないのですが、良く見られる光景です。(相手が初心者で、手順等を覚える際にはこのような受けが合わせることも必要です)

 これは、型稽古ゆえに、次に何をするのかが分かっているから合わせられるのですが、これをやってしまうと肝心なところが掴めず、稽古の意味がほとんどなくなってしまいます。

 これとは反対に、相手がやりにくくなる様に意地悪な受けを取る光景も良く見ます。実はこれも先の例と同様で、次に相手が何をするのかが分かっているからできることです。そういう受けの方は凡そ隙だらけなのですが、そのことに自身が気が付かない様です。

 ジャンケンで後出しというのがありますが、後出しをすれば勝つことも負けることも自在です。

 後出しをして、勝って喜んだり、負けて悔しがっている様子を想像すると滑稽です。

 受けが相手に合わせるのも、意地悪をするのも、後出しジャンケンと同様にとても滑稽な光景なのです。

 型稽古というのは、受けがグーを出すことと取りがパーを出すことを決めてジャンケンをしているようなものです。

 それなのに、取りが間違えてチョキを出したからといって、受けが慌ててパーに変えることや、逆に、受けがグーを出さないで、チョキを出して威張っているのは滑稽だということです。

 この様な滑稽な要素を厳しく正直に1つ1つ取り除き続けていくことは、その人自身にしかできない取り組みです。不要なもの、偽りのあるものを1つ1つ取り除き、最後に残るものが真理なのだと思います。

 自分の中にある滑稽な要素・・・嘘を見逃さない厳しさを「誠の心」と私は呼んでいます。

 誠の心で稽古に臨む、今の私には無心・無邪気に相手の前に立つことがその取り組み方です。

 私達一人一人が、誠の心で稽古を続けることで、この合気道という素晴らしい文化を、より良いかたちで未来の人たちへ受け渡すことができるのではないでしょうか。

 誠をば更に誠に練り上げて 顕幽一如の真諦(しんたい)を知れ (開祖 植芝盛平先生)

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