「振り下ろす太刀の下こそ地獄なれ、ただ踏み込めよ先は極楽」 これに似たものとして、 「振り下ろす太刀の下こそ地獄なれ、ぐんと踏み込め後は極楽」 「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏みこみ見れば後は極楽」 「斬り結ぶ刀の下ぞ地獄なれ ただ斬り込めよ神妙の剣」 「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」 などなど沢山あります。 柳生石舟斎、宮本武蔵等が詠んだものと言われていますが、何が確かなのかは私には不明です。 大石新陰流の大石進について書かれた著書のタイトルが「ただ踏み込めよ先は極楽 実録大石神影流剣の極意」でしたので、同流の極意歌かと思いましたが、同著を読んでも詳しくは分かりませんでした。 しかしながら、これらの歌が同じことを言わんとしていることは分かりますし、虎の巻と同様に、誰が詠んだにせよ、とても大切な剣の極意であろうと思います。 これらの歌の中から、私なりに最も大切にしたいと考えている箇所が「ただ踏み込めよ」です。 特に『ただ』ということをとても大切に思っています。 ただ座り、ただ立ち、ただ歩き、ただ打ち、ただ打たれ、ただ踏み込む 私達は、窮地に立たされたときに、この『ただ』を失います。 日常生活の中で、例えば壁のスイッチを人差し指で押す際に、壁までの距離や歩数、手を出すタイミング等を意識しているでしょうか? 恐らく殆どの方がそのような事を意識せずとも、100発100中で壁のスイッチを押せていると思います。
ただスイッチを押せているのです。 しかし、前に立つ相手に正面打ちを打ちこむ時には、壁のスイッチの様にはいかない様です。
ただ打つことが難しくなる。 普段の生活の中では難しくない動きが、同じような動きを、前に立つ相手に行おうとすると急に難しくなるのはなぜでしょう? 合気道に限らず、武道で大切なのは、器用な動きを色々とこなせる様にすることよりも、この『ただ』を失わない自己を確立することではないかと思います。