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執筆者の写真田中 利幸

水月の位(解説)


「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」 今からおよそ500年前に剣聖塚原卜伝(つかはらぼくでん)が詠んだとされている歌です(諸説ある様です)。 卜伝は鬼一法眼から300年以上後の人です。 室町後期から江戸時代にかけて、剣術が発展し、剣聖と呼ばれる達人を生み出しました。 卜伝もその一人です。 先の歌は、

「月は(水に)映ろうとも思っていないで、ただ映っている。水も(月を)映そうとは思わないで、ただ映している。」 といった意味ですが、「水月(すいげつ)」という言葉はこの水と月の在り方と関係を指しています。 (広沢の池とは、平安中期に建てられた京都の遍照寺というお寺の庭池です。) この「水月」という言葉は剣の多くの流派で使われています。剣の正眼の構えを水月の構えということもあります。 また、一歩踏み込めば剣が当たるギリギリの間合いである”一足一刀の間合い”を「水月の位」ということもあります。 私は、この”ギリギリ”である状態を、「そこから先に行けば引き返せない一線」ととらえています。 真剣の立会なら、その先に踏み込むことは死を受け入れることにつながります。 その状況を「水月」を以て表現した意図は何でしょうか? 先程の歌にあった、水と月の関係を真剣の立会に当てはめてみますと、水は自分であり、月は相手です。 ~真剣勝負の立会~ 「相手は(私を)切ろうとも思わないでただ立っている。私も(相手を)切ろうとは思わないで、ただ立っている。」 ということだと思います。これは、達人どうしの立会の様相です。 しかし、互いに近づき、”ギリギリ”の間合いになったとき、修業が未熟なら、心にざわめきが起こります。 どちらが先に動くのか?どう動くのか?勝てるか?負けるか?などなど、怒りや恐怖、驚きや疑いや戸惑いが襲ってきます。(四戒(驚、懼、疑、惑)) このざわめきを池の水に例えると、水面がざわめき、揺らいでいる状態で、その水面には月をそのまま映すことはできません。(相手から見れば、自分が月であり、相手の心が水です。)

ざわめきにより、相手が見えていない状態になっているのです。 「水月の位」という言葉には、そのような時であっても、「水月」の心で臨みなさいという教えがあるのだと思います。 ~決着の時~ 熟した柿が木から落ちる様に、立ち会いの機が熟し、決着の時が来ます。 「相手は(私を)切ろうとも思わないでただ切りかかって来る。私も(相手を)切ろうとも思わないでただ切りかかって行く。」 または、 「相手は(私を)切ろうとも思わないでただ切りかかって来る。私も(相手を)避けようとは思わないで、ただ立っている。」 これは、剣の最高の境地である”相打ち”や、針ヶ谷夕雲の説く”相抜け”に通ずるのではないでしょうか。

”相抜け”とは聞き慣れないかもしれませんが、無住心剣術の開祖である夕雲が、相打ちを超える境地として説いたものです。 夕雲の言葉によれば「両方立ち向かいて平気にて相争うものなきが相抜け」であり、「争うものあれば相打ちなり」 とあります。「争う心」が一欠片でも残ってるから当たってしまう(相打ちとなる)もので、「争う心」が微塵もなければ当たることがない(相抜け)となるということでしょう。

齢70の夕雲が高弟と3度立ち会い、いずれも相抜けに終わった日の様子をその高弟が次の様に書き残しています。

「相抜けの日、夕雲いかが存ぜられるか、懐中より念珠を取り出し、余に向かって香を焚き、余を拝せらる」

ところで、どこまでがギリギリなのでしょうか? 懐の深さ、間合いの深さは人によって異なります。その違いは、肉体の差を除けば、どれだけ捨て身でいられるのかの心の持ち様の違いではないかと思います。 懐が浅ければ、ただ立って待つことができず、こちらから切りかかって行くことになります。 なかなかできることではありませんが、完全な捨て身になった人は、相手の侵入をどこまでも許容し、こちらからは、ただ踏み込んで行くことができるのではないでしょうか。 自らを捨て、ただ池の水の様に立ち、ただ待ち、熟した柿の様にただ落ちる・・・「水月の位」とはこの様な在り方を教えている様に思えます。 ただ踏み込めよ、先は極楽(大石神影流極意)

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