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執筆者の写真田中 利幸

「みる」力


 医師の道に 「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」 という5つの「みる」があると聞いたことがあります。患者の語りだけではなく、医師の側から患者の状態を探りとることの大切さを教えているのだと思います。

 武道では、「見取り稽古」という言葉があります。また、初心者のことを「見習い」と呼ぶことがあります。

 これは、教えてもらうのを待っているのではなく、師匠のやり方を見て自分から学び取ることを指しています。

 教えというものは、与えられるのではなく、こちらから探し出して受け取りに行くものなのです。

 私の場合は、師の動きを見る時、全体の様子、足捌き、手捌き、体捌き、視線等を注意して見ています。足の置き位置、相手の足との位置関係、掌の様子や向きといった細部を見て、それを真似るのと同時に、全体の雰囲気、方向性といった全体的なものを見て、それを真似、またそこから師の気分までも把握し真似ようとしています。そしてそれを何度も繰り返し自分へ擦込んでゆくのです。

 そのように、注意深く見ることを続けていくと、次第に「見る力」が身についてきます。この見る力は、表面だけではなく、その内面をも見ることのできる力です。師が示すその技の心を見取るのです。

 この見取りのことを昔から武道では「盗む」という言い方をすることもあります。表面には見えない大切なものを見ることで盗むのです。盗むというと言葉が悪いようですが、何事にも隠れている重要なものがあることを、この言葉が示しているように思います。

 合気道であれば、師の受けを取ることもあります。この時は師の様子を客観的に観察することは難しいのですが、逆に、師の技の呼吸、手触り等がとても良く伝わってきます。目だけでなく、全身で見ている感覚です。

 この見る力は、その人自身が謙虚に懸命に見る努力を続けなければ身につきません。どんなに優れた師がいて、どんなに長くその師の側にいても、見ようとしなければ、その人は何も学んでいないのと同じです。

 新しい若い人が著しい成長を遂げるのを何度も見てきました。そのような人たちの稽古での見取りの様子は、瞬きをするのも惜しむかの様に真剣な眼差しを師へ向けています。稽古に臨む態度として素晴らしいと思います。

 見て学ぶことは、やがて、師だけでなく、あらゆることに自然と向くようになります。そうなれば、子どもや初心者も師であり、自分を取り巻くあらゆる環境が師となり得るのです。そして、この見る力を最も注がなければならない対象が、実は自分自身であることに気がつくのです。師を見ることから初めて、やがて自分を見ることに至れば、真の修行の始まりです。

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