「あなどる」・・・漢字では「侮る」、その意味は「 相手を見下げて軽んずる 」など。
道場において、白帯の人、女性、子供、おとなしい人等を私達はあなどってはいまいか?
「あなどる」ためには、まず、その人の価値や能力を勝手に決めてかかる必要があると思います。
「この人はこの程度だろう」という予測や、「この人は今までこうだった」という経験が「あなどり」を生むのでしょう。
この「あなどる」という意識は、私が求める武道に必要かどうかと考えれば、それは不要であるだけでなく、邪魔なものであると思います。なぜなら、この「あなどり」は、言い換えれば、「こうであろう」という「予測」であり、「こうだった」という「とらわれ」であり、それは「構える」こと「居つく」ことと同義であると考えるからです。決めつけた様な構えや居つきは固さとなり、自己と周囲との調和を拒むことにつながり、周囲が強ければ自己は固いゆえに粉砕されるものと考えます。
また、厄介なことに、「あなどっている人」は自らの内にある「あなどり」になかなか気が付かないのに対し、「あなどられた人」は相手が自分をあなどっていることが良く分かるものです。
ならば、もしも生死を掛けた真剣勝負の場でこの「あなどり」があったとしたら、「あなどっている人」は「あなどられた人」に背後をとられたも同然なのではないでしょうか。
少し話は変わりますが、私が合気道の修行に真剣に打ち込むことを自らの内で決意した20代の時期に、よく考えていたことが、「全ての原因が自らの内にあるという思いで稽古場に立つ」ということです。これは、上手く行かない理由を相手のせいにはせず、全て自分に原因があるという姿勢で稽古に臨むという思いでした。その根底には、「あらゆる状況にも対応できるようになりたい」という強い思いがあったからです。今では少しこの思いに変化があり「なぜそうなったのかは、自分にも相手にも原因があり、ただ単に、それらの原因からその結果が生じただけのことで、その因果関係を客観的に観察し理解できるかどうかが大切で、心を動じないことが肝心である」という思いになっています。
どのような相手や状況も「あなどる」ことなく「そのまま」の姿を見ることができる心に至る姿勢で稽古に臨みたいと思っています。