合気道にかぎらず、固いよりは柔らかいほうが良いというのが私の見解です。柔らかさは可能性そのものだと考えているからです。
「柔らかい」の反対は「固い」だと思います。
そして、柔らかさを知るためには、あえて、その逆である固さについて同時に考えることでヒントを得ることができるとも思います。
先に断っておくと、ここでの柔らかさとは、ストレッチ・柔軟体操の柔らかさとはあまり関係がありません。当然そちらの柔らかさも大切ですが、ここで申し上げたい柔らかさというのはそれとは異なる属性のものです。その柔らかさもしくは固さの根源はその人の精神に起因するもので、腱の柔らかさとはあまり関係がないということです。
私にとって柔らかさとは変化可能であるということであり、無数の選択肢を常に持っているということでもあります。従って固さとは変化不可能であり、選択肢の少ない状態です。
では、その人の精神が、その人を固くするとき、即ち、その人の変化の可能性を損なわせ、選択肢を少なくする時とはどういう時なのでしょうか。それはおそらく、その人の臆病さが働いている時なのではないかと思います。臆病になっていることで可能性や選択肢を損なわせているのです。人間誰しも、自らを変化させるのは怖いものです。変化を嫌い避けることは誰にでもあることです。しかしながら、周囲の環境は時々刻々と残酷なまでに変化しており、それに応じてこちらも変化し続けなければならないのが現実なのですが、動物の性なのでしょうか、まるで自らの命が永遠だと勘違いするのと同じ様に、今のままの状態がずっと続くことを望んでしまうのかもしれません。自らを守りたいという臆病さが変化を損なわせるのだと思います。
もう一つ、固さをもたらすものとして、「自己をみつめる」ことができないという理由が思い当たります。自らを見つめ、自らが柔らかく在れているかを見つめず、相手ばかりを見て、ああしてやろう、こうしてやろうとしている状態です。相手をどうこうしようという目的にとらわれてしまい、そのとらわれが自らを固くしていることに気づくこともできないのです。私は、このように自らの状態を見つめず目をそむけている状態を卑怯だと思います。自らを顧みない卑怯さです。
固い人は自らの固さに気がつくことができません。なぜならば自らを顧みないからです。
固さよりも柔らかさを追求する稽古を、これからも続けていきたいと思います。