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飽きることの良さ

私は幼少のころ、マヨネーズご飯が大好きでした。

白いご飯の上にマヨネーズをグルグルかけてから混ぜて食べます。

昔のマヨネーズの容器の出口は、今の様に小さなものではなく、大きな星型でした。

ですので結構な量のマヨネーズをご飯にかけていたのです。

そんなマヨネーズご飯が大好きで大好きで、この世でこれ以上美味しいものは無いのではないかと、当時は思っていました。


ところが、それが、小学生のある学年になったころ、そういえば最近マヨネーズご飯食べてなかったな、ということで、久々に食べたところ、一口目で違和感を覚えました。

美味しくないのです。

ショックでした。

あんなに美味しかったマヨネーズご飯がなぜ・・・


私自身の味覚の成長を感じたエピソードです。

これは、私がマヨネーズご飯に飽きてしまったともいえます。


私の両親が、私がマヨネーズご飯を食べるのを禁止していたら、未だにこっそり食べていたかもしれませんが、あの頃、心おきなくマヨネーズご飯を食べさせてもらったおかげで、マヨネーズご飯に飽きることができたのです。

(マヨネーズは今でも好きで、ご飯以外のものにちょくちょくつけています。)


そうして私の味覚は徐々に変化していったわけです。

子供のころ、どうして父親はキュウリの酢の物を食べるのかわかりませんでしたが、今では良くわかります。

(マヨネーズも酢からできています)


食べたいだけ食べて飽きたら、次の食べたい味が分かるのです。


合気道ではどうでしょうか?

合気道を習い始めた時から、そして今となっても私たちは「正面打一教」を稽古します。

私たちは正面打一教に飽きないのでしょうか?


一教が飽きたら二教、二教が飽きたら三教・・・と順番にならうという手もありますが、そうなるといったい何教まで必要やらということになります。


私たちは、同じ名前の正面打一教でも、稽古を重ねる毎に少しづつ変化や工夫を加えて行っているはずです。

そして、いつまで経っても完成することのない正面打一教を続けているのです。

そもそも、「完成」することが目的ではないのです。

目的があるとすれば、それは「変化し続ける」ということかもしれません。


今のやりかたに飽きる為には、飽きるほどとことんやり込む必要があります。

そうしていると自然に変化の糸口を見つけて、次のやりかたへ移っていく。


マヨネーズの様な一教から酢の物の様な一教へと変化していくのです。


私が中学生のころに邁進していたのは派手で豪快な蹴り技の習得でした。

空手の本を参考にして、夜な夜なストレッチと筋トレと突き蹴りの自主訓練に明け暮れていました。

特に訓練したのが、上段回し蹴り、上段後ろ回し蹴り、上段横蹴り、上段飛び横蹴り等です(冗談ではありません)。派手の代名詞の様な蹴り方ばかりでした。

これが私の武道への第一歩と言えます。


合気道でも、派手で豪快な投げ技や受身をしているのを見ることがあるでしょう。

私にはあんなことはとてもできませんし、やりたいとも思いません。

しかし、やりたいと思うのなら、興味があるのなら(十分に安全に配慮した上で)とことんやってみると良いと思います。

それも飽きるまでやり込むのです。その先に必然的な変化が待っているはずです。


「飽きる」ということは「変化し続ける」ことの原動力なのではないでしょうか。


飽きるまでとことんやったら、飽きている自分に正直になって、次にやりたいことをやってみる。

今の枠を破ってはみ出してみる。どんどん変化し続けていくことが自由へと繋がっていくのだと思います。

~~~

先日始めた筋トレは3日続き、その後、息子と始めた走る訓練も3日続きました。

最近はいろんなことに手を出してみては3日程続くことを繰り返しています。

私もどんどん変化して自由に向かっているのでしょうか。


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