無限の選択肢から1つを選択する。
それも迷いなく最善の1つを。
私達に、そのようなことが可能なのでしょうか?
本来なら、1つ1つの選択肢を吟味し、よく考えて1つを選ぶのでしょうけれど、選択肢があまりに多くては時間が足りません。
特に武芸などは、囲碁や将棋と異なり、相手が待ってはくれません。
最善のタイミングで最善の一手を選択することが望まれます。
その様なことを、思考によって行うことができるのかどうか?
たとえ1万通りの状況に対応する最善の手を暗記していたとしても、1万1通り目の状況に対応できませんし、思い出してから動いたのでは間に合いません。
一方、水は高いところから低いところへ流れますが、その挙動を間違えることはありません。
水の様に、間違えることなく動くにはどうすればよいのか?
少なくとも、考えて行っていたのでは不可能そうだということは分かります。
日常生活の動きの中には、私達が考えないで行う動きがあります。
それは咄嗟の動きです。倒れそうな人に咄嗟に手を差し伸べた等の動き、あの時の私達の状態は無心だったのではないでしょうか?
考えて判断するのではなく、無心で動く。
そして私達には『美しいと感じる心』があります。
無数の石ころの中から、キラリと光る宝石を咄嗟に拾い上げる時、他の1つ1つの石ころを見ているわけではありません。
全体を眺めているなかで、さっと1つを選んでいます。
立ち姿を眺めた時、身体の各部位ごとに目を向けなくとも、なんとなく一目でその姿勢の良し悪しがわかります。
これは、いわゆる違和感によるものです。直感的に何かがおかしいと感じるのです。
「合理的な思考」は客観的ですが、『美しいと感じる心』は主観的です。
「合理的な思考」のみで考えて選択するのではなく、『美しいと感じる心』に従って、水が流れる様に咄嗟に選択する、それこそが芸の本質であると私は考えています。
しかし、そこへ至るには「合理的な思考」による工夫を積み重ねていく努力が必要であり、それにより、より深い美意識へと成熟していくのだと思います。
客観的な合理性に育まれた主観的な芸術性です。
稽古とは、この『美しいと感じる心』を深めていく鍛錬であると言い切っても良い、と私は考えています。
合理的に思考し工夫を重ねる稽古、芸術的な感覚のみの無心となり咄嗟に動く稽古。
そのような稽古を繰り返して『美しいと感じる心』を鍛錬していくのです。
そしてこの『美しいと感じる心』こそが、芸の極致なのです。
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