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執筆者の写真田中 利幸

稽古の可能性 ~芸の本筋とAI~

1ヶ月に1つを目標に書いてきたこのブログですが、気がつけば5ヶ月ほど休んでしまっていました。

次に書きたいと思っていた「本筋」についての私の思考は、新型コロナウイルスの脅威を前に停滞してしまっていたようです。情けないことです。


当会の稽古は3月1日の稽古を最後に自粛し、現在(6月2日)に至るまで休止しています。

日本だけではなく、世界中の合気道家達が稽古を自粛していましたが、やがてオンライでの稽古等、様々な工夫をする人々が現れてきました。


私も弟子仲間と稽古継続の可能性を少しですが話し合う機会がありました。

その話し合い(と言っても数回のメールのやり取りだけなのですが・・・)で達した1つの結論が「1人で行える型稽古」でした。

ただ厳密な形の無い合気会の合気道ですから、型稽古と言っても色々と問題があるという共通認識で話は止まっています。


日本では主に、空手に単独の型が存在します。

そのルーツは中国拳法にあると言えるでしょう。

中国拳法はその長い歴史の中で脈々と変化しながら受け継がれて来たはずですが、それらが型として集約されていると言えます。

例えば太極拳を見ると、陳式、呉式等多くの系統があり、またその中でも古い型から新しい型があるそうです。

それらの型を通して太極拳の核となっているものを把握することが型稽古の目的と言えるでしょう。


なるほど、型稽古であれば、1人で時と場所を選ばずに継続できそうです。そして時々師匠に見ていただいたり、2人での対練を行えば良いということになります。

長い歴史を耐え抜いてきた文化には、それ相応の工夫があるということだと思います。一人で行える型というのも今になって素晴らしい工夫であることを思い知らされます。これらの文化の伝え方の工夫だけ見ても学ぶべき点は多いでしょう。


少し話はズレますが、オンライでも実施可能なスポーツがあります。

いわゆる「eスポーツ」です。コンピューターゲームがスポーツと呼べるのかどうかは色々と意見がありそうですが、人間の瞬時の判断力と反射神経を用いていることを考えると、主に神経系統に特化したスポーツとして見る事ができるかもしれません。

関連する技術の中でもVR(Virtual Reality=仮想現実)の技術は急成長している様で、いつの日か、合気道の稽古をVRで行う日がやってくるかもしれません。


ゲームといえば以前から取り上げてきた囲碁もゲームの1つです。

囲碁は、交互に1つづつの石を置くという、体格や反射神経が関係しないゲームです。

eスポーツは体格は関係ないと思われますが、反射神経は関係があるでしょう。それに対して囲碁は、体格だけでなく反射神経も関係はありません。

囲碁で必要なのは、考え方、判断力、感性のようなものでしょう。

実は、囲碁の世界ではAI(Artificial Intelligence=人工知能)が大きな影響を与えており、とくに若い棋士はAIを用いて学習していると聞きます。

また、以前最強と言われていた韓国の有名な棋士がAIに負けたことを機に「AIには勝てない」と引退したという話もあります。


囲碁には定石といわれる型のようなものがあります。

盤上のいつどこに石を置くのが効果的かということが、長い歴史の中でいわゆる型として見いだされたものです。

最近のAIは、囲碁のルールを教えるだけで、あとはAIの中で無数の試合を高速で行わせて自己学習させることができるそうです。

そして、その結果AIが編み出した型は、人間が見出してきた定石と良く一致しているそうです。


人間が何百年もかけて見出した型とAIが見出した型が一致するということ。


このことは、1つは「人間が見出した定石はほぼ究極に近づいている」とも言えそうですし、逆に、「AIは人間では何年も要すことを一瞬で見出すことができる」とも言えます。


ある囲碁のプロ棋士が、AIの手を見て(その手は確かに強い手だったそうですが)「そんな下品な手が打てるか!」と怒ったそうです。

また、江戸時代の最強の囲碁棋士であった本因坊道策は「この形勢ではもう一歩深く打ち込まないと勝てない。でもそれは本質的に正しい手ではなく、私には打てない。」として一歩引いた手を打ち負けたそうです。

これは相手のミスを誘ったりする手は本筋ではなく、あくまでもその局面での究極の1手でなければ本筋とは言えない、本筋を打って負けるのだから仕方がないということでしょう。

この道策という方は特に囲碁の芸術性を重視していたそうで、「美しくない」手は打たないことに徹底していたそうです(「美しくない」とは人間の感性から見て「理に適っていない」ということだと思います)。


人間がもつ「美しさへの感性」


AIが導き出す「究極の合理性」


この2者が一致していないとすれば、人間にはまだAIより優れた面があるということなのか、もしくは、人間の美意識はAIが導き出す究極の美を理解できない程の未熟さなのか、それはまだわかりません。


ところで、合気道だけではなく、人間の身体の運動を重視した文化、武術、舞踊、作法などを広くみると、人間が長い年月を経て見出してきた「正しい身体の動かし方」であったり「正しく身体を使うための心のあり方」やそれらを繋ぎ合わせる「呼吸法」などに行き着き、それらに共通点があることがわかります。

人類が長い年月をかけて見出してきたその身体文化にAI等の技術が組み込まれたらどのようなことが起こるのでしょうか?

1人の人間の一生では到底体験できない程の仮想体験を、AIは凄まじい速さで計算し(体験し)、その中から最適な「解(理)」を見つけることができるとすれば、それはあらゆる身体文化、身体芸術の達人と同等かそれ以上の技量を持っているといえはしないでしょうか?


AIの師範が合気道を教える・・・、ちょっと想像ができませんが、囲碁の世界では既にそのようなことが起きているのです。

囲碁や将棋の世界では、人間がAIに勝てない状況になっています。

一方、eスポーツでは、ターン制の囲碁や将棋に比べ、リアルタイムに攻防が展開し、物陰に隠れてからの奇襲など人間的な要素が多く、少し前までは、AIが人間に勝つことはまだ難しいと言われていたそうです。

しかし、eスポーツの世界でも、既に自己学習で強化されたAIのプレイヤーが登場しており、人間のチャンピオンに勝ったという例がある様です。

1秒間に1億回以上の処理を行うコンピューターから見れば、人間の反射神経や判断速度はとてもゆっくりとしたものでしょうから無理もありません。

AIの存在は、徐々に現実世界(リアル)に近づいていると感じます。


AIだけではなく、ドローンやロボットの技術も目まぐるしい進歩を遂げています。


人間と同等の体格、耐久性、速度、筋力、持久力のロボットにAIを搭載したことを想像するといかがでしょう?そのロボットはとても短い稽古(自己学習)で素晴らしい武術を編みだすかもしれません。


既に芸術の分野でも、絵画、音楽、文学等でAIがそれなりの作品を作成しているそうです。

芸術の分野ではまだまだモノマネの様な作品に留まっているそうでほっとしましたが、いつの日かAIが芸術の最先端を作り出す日が来るかもしれません。


「それでもAIには感情が無い!感情こそが人間の素晴らしさだ!」


という意見があるかもしれません、しかし、そもそも感情とは何でしょう?心とは何でしょう?

人間が全身麻酔で意識を失っている間、その人に感情や心はあるのでしょうか?

全身麻酔により意識を失うメカニズムはまだ完全には解明されていないそうですが、少なくとも神経の伝達物質の働きが抑制されることでその麻酔の効果が発生している様です。

神経は電気信号を伝えるもので、脳はそれが密集したもの、その脳の電気信号が遮断されれば意識を失う、それが人間だとすれば、コンピュータの中の電気信号が複雑になっていけば、それは意識や自我に似たものになる可能性が無いとは言えないと思います。


AIが意識を持つかどうかの研究も既になされていて、ある研究での意識の定義は「自分自身をシミュレーションする能力を持っていること」だそうです。

これは、自己にまつわる過去の出来事を思い返したり、未来の出来事を想像したりすることができるかどうか、ということに関係があり、何をどのように想像(シミュレーション)するのかを自分で決めることができるということです。

その研究者によれば、現在のAIの意識のレベルはバクテリア程度とのことで、まだ人間にはつかの間の猶予がありそうです。


・・・稽古の可能性の話から、気がつくとアンドロイド等の話になってしまった様です。

ともかく、人間は自らの手で最高のライバルを作り上げているのかもしれません。

様々な芸道の「本筋」を掴むのに、これからAIが活躍することでしょう。


今後、合気道の稽古、武道の稽古がどのように変わっていくのかは現状ではわかりません。

オンライン稽古、屋外での稽古、武器を主体として距離をとった稽古、普段着で行う稽古、一人稽古など色々と工夫がなされてきています。

私達は日頃の稽古で「今できることをする」「動かせるところを動かす」ということを大切にしてきました。

様々な方の様々な工夫により、今後も、「今でもできる稽古」が次々に生まれてくるでしょう。もしそれが一見意味がなさそうでも、滑稽であっても、無駄なあがきに見えても、少しでも可能性を増やすという点で十分に意味があるのです。

その観点で、生命の進化、突然変異、自然淘汰等と同様に、自然と、合気道家は自己存続の可能性を高める方向へ向かっているように思われます。存続の先で、姿形が変わっても、「肝心なところ」が変わっていなければそれで良いのだと思います。


稽古というものは「自己を見つめること」「人間の価値を見つめ直すこと」に他ならないと私は考えています。

自分自身が素晴らしいと感動したことに熱中し工夫し、その素晴らしさを他者と共有できる可能性を探ることが稽古の本質なのだと私は思います。

その「素晴らしさ」とはなにか?それが「肝心なところ」です。


(書いていて、自分でも何を書きたいのやら混乱気味でした、「書くこと」も良い稽古になりそうです・・・)


最後になりましたが、今もなお世界中で奮闘して下さっている医療関係者の皆様本当にありがとうございます。


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