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最善を目指す心 ~感想戦に想う合気道のありかた~

 将棋の対局が終わると、直ぐに感想戦といって勝者と敗者がその一局を振り返ります。

 感想戦は、互いにより良い一手があったのではないかと意見を交わす慣習です。

 囲碁でも同じことが「検討」と呼ばれて行われます。囲碁でも将棋でも、この感想戦をとても大切にしています。


 この感想戦について、公益社団法人日本将棋連盟のホームページに説明があります。


 ( https://www.shogi.or.jp/column/2017/05/post_150.html )


 このページで、羽生善治名人と佐藤康光九段の対局後の感想戦のエピソードが紹介されています。

 その件を抜粋してみましょう。


 『以前、羽生善治名人の対局(2009年の第35期棋王戦本線トーナメント)の感想戦を見せていただく機会がありました。このときの相手は佐藤康光九段でした。対局では長い持ち時間を使い切るまで考えていますから、精も根も尽き果てているはずです。すでに疲れ切っている頭と身体をさらに酷使して感想戦に臨む羽生名人の姿は、勝負に負けた悔しさを超越していると思いました。勝った佐藤康光九段も最善手(さいぜんしゅ)を模索して、何時間も、深夜に及ぶまで感想戦を続けられていました。私は、そのすごさにただ圧倒されるばかりでした。』


 なぜこれほどまで感想戦を大事にするのでしょう?

 おなじページには次のようにも書かれています。


 『将棋はいかに全力を出すかを競い合う競技』


 『将棋の本当の目的は相手に勝つことではなく、「自分の心に克つ」ということなのだとわかってきます。対局者の二人が、自分の力を出し切って最善手を模索し合う競技、と言ってもいいでしょう。』


 いかがでしょうか。


 全力を出し切ること、最善手を模索することを相手との共同作業によって成す。

 これが将棋だというのです。

 これと同様のことを囲碁の藤沢秀行氏もその著書「勝負と芸」等の中で記しています。


 『名局と呼べるのは、互いに最善手を打ち続けた結果にできるもので、目先の勝負や、卑怯な手を使ったものは名局にはなり得ない、名局は対戦者2人で作り上げていくものだ。』


 『碁とは,勝負である前に創造であり芸術である』



 最善手というのは、「その局面における最も善い選択」のことです。

 あらゆる局面におけるあらゆる選択肢の中から常に最善の選択をすることを目指しているのです。


 また、囲碁や将棋には、定石(定跡)というものがあります。囲碁の場合は定石(じょうせき)将棋では定跡(じょうせき)と書きます。

 これは、対局の序盤でさされる決まった型であり、序盤の最善手のことです。

 AIが発達し、AIによる最善手の解析もなされていますが、囲碁や将棋の定石(定跡)はAIが示す型と良く一致しているそうです。

 対局は中盤終盤になると複雑になりますが、序盤であれば「型」といえるものが現れやすいのでしょう。


 私達が稽古している合気道には、囲碁や将棋の様な試合すらありません。それに、合気道を稽古する人によって、その目的が異なると思います。

 それゆえ各人がとても自由に様々な表現方法で独自の合気道観を示していると私は思います。そのような多様性は合気道の魅力の1つになっているとも思います。


 では、合気道を志す全ての人が納得できる共通の目的は存在しないのでしょうか?

 

 私は、その誰もが納得できる共通の目的こそが『最善手』の追求であると考えています。

 そして、その土台となるのが『全力を出し切ること』だと考えています。


 全力を出し切る、というと何か、筋力やスピードの追求を想像してしまうかもしれませんが、それとは少し異なります。

 筋力とスピードの鍛錬は健康的で素晴らしいことと思いますが、ここで私が申し上げたい全力というのはそれと異なるのです。


 解りやすい例を挙げると「正面打ちを打つ」ということを全力で行う場合を想像して頂きたいと思います。


 私が正面打ちを指導させていただく時に繰り返しお伝えすることに次の3つがあります。


 ①届くこと


 ②それなりの威力があること


 ③止められること


 の3つです。①②は実用性の面で、③は稽古を安全に継続する面で必要です(特に③を重視しています)。


 この3つがある程度できる様になった段階で、さらに


 ④隙の無い様に打つ


 ということを伝える様にしています。

 

「当たればそれなりの威力のある打撃がきちんと当てるべき個所に到達し、振り上げて打つまでの隙を最小限にできていて、さらに当たってしまいそうな時は止めることができる。」


 このことをその人なりに全力で取り組むことを、私は全力の正面打ちであると考えています。


 その結果、筋力やスピードよりも、脱力・姿勢・間合といったことが大切だと感じるようになってきます。


 稽古における受けと取りについても同様で、受けが全力で攻めることでよい稽古が成り立つと私は考えていますが、その”全力”というのも上述の正面打ちの例と同じものです。

 

 体格や体重、筋力、年齢には個人差がありますが、筋力やスピードは相手によって互いに加減しながら、”全力(脱力・姿勢・間合と)”を出し合うのです。



 囲碁の話でとても興味深い話があります。

 といいながら著名は忘れてしまいましたが、ある囲碁の先生の著書の中で次のようなことが書かれていました。


 『碁盤が最も美しい状態は何も石が置かれていない状態です。そこへ1つ石を置いてしまうと盤面が汚れバランスが崩れてしまいます。もう後戻りはできないので、その崩れたバランスを取り戻す様に次の1手が打たれます。そうして交互に、ギリギリの攻防の間合いに石を打って行き最終的に美しい模様に至るのです。』


 概ね上述の様な内容でした。どちらかが手を出してしまったからには終局まで最善手を出し合って美しい終わりを遂げるのです。


 美しい状態から始まり、美しい状態に戻るのです。


 書道でも同様でしょう。真っ白な美しい半紙に一旦墨をつけてしまうと後は筆を進めるしかありません。そして美しい書が現れて終わるのです。


 私は合気道の稽古も同様なものと考えて取り組んでいます。


 受けが取りに手を出さなければ、それが最も美しい型なのかもしれません。ただ姿勢良く呼吸を正し、脱力した状態で立っているだけです。とても平和な状態です。


 しかし、これは稽古ですので、あえて受けが取りに攻撃を仕掛けます。それも”全力”で攻撃します。こうなると取りもそれに応えて次の一手を出します。互いに隙をつくらずギリギリの攻防の間合いを探して一手を打ち合います。

 そうして1つの型が現れ型の終わりへと至ります。


 受けは囲碁や将棋でいうところの先手です。囲碁では先手が6目程有利とされているのでその分をコミといって換算します。将棋でも先手の方が2%程有利と言われています。

 言い換えると、囲碁の先手でいい加減なところに石を打つと一気に6目程失うことを意味していてとても大きい損害です。それ故序盤の定石は重要です。


 合気道でも良い稽古を行うには、受けの最初の一手が重要です。

 合気道の型は先手の受けが後手の取りに投げられる等して終わります。

 先手が不利になる理を合気道の型は示しているともいえそうです。

 先手で攻めるという行為すなわちバランスを崩す行為に、不利となる理が潜んでいるのだと私は考えています。


 私達は、その理の追求を互いの”全力””最善手”を出し合いながら模索しているのだと思います。

 その結果、間合いや呼吸、脱力、姿勢といった自己の状態の重要性に気が付いていくのです。

 そして、互いの状態を高めていく、深めていくのが合気道の稽古だと考えます。

 いずれ、その先にある『道』へ至り、より良くより自然で楽な自己の探求へと入っていくのだと思います。



 道場で互いに触れ合いながら高め合う、そのような合気道は素晴らしいものです。


 コロナ禍の今、新たに合気道を志そうそする人を始め、多くの合気道家達が道場へ行けず不自由な想いをしています。

 当会も昨年の3月~6月の休止に続き、この5月から2度目の稽古休止となっています。


 毎週当たり前の様に会っていたこども達、稽古人の顔を想いうかべます。


 本当は、当たり前などはなく、全てが一期一会であり奇跡なのだと感じます。



 今日も世界各地で灯を消さない様にがんばっている同志の皆様がいらっしゃると思います。

 一方、志の灯が消えかかっている人もいらっしゃるかもしれません。

  

 私は私で、その時できる私なりの方法で、例えばこのようなことを書き記すことで、合気道の素晴らしさを表現し、少しでもそういった皆様の合気道への志の支えになることができれば幸いです。




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