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執筆者の写真田中 利幸

学生合気道部

 中学、高校、大学等に合気道部がある。

 コロナ禍の今、その合気道部が存続の危機に立たされていると聞いた。

4月からの新入生の勧誘だけでなく、稽古さえもなかなか行えない現状では無理もない。

 その昔、2代目吉祥丸道主が、合気会の合気道を全国に普及させるために、これから社会に出ていく学生たちに合気道を広めることとし、学生の合気道部の設立に力を注いだと何かで読んだ記憶がある。その当時の学生たちが、各地で合気道の道場を開き、今日の合気会の普及に至ったのだという。

20年以上前、私もまた学生だった、私は少林寺拳法部だったが、2つとなりの道場が合気道部という具合で、その当時から、私は合気道に興味を持って合気道部の様子をちょくちょく拝見していた。

 合気道部の稽古を見ていると、投げては立ち上がり投げては立ち上がるということを延々と、黙々とつづけており、2~3回やっては、「ああだこうだ」と口で言っていた私の稽古とは異なり、何か一種の行(ぎょう)の様だと感じて感銘を受けた記憶がある。

 その後、社会人となった私は、毎週の様に土曜日になると、この合気道部にお邪魔して学生たちと稽古をさせていただいた。夏の強化練習時には、マラソンにも参加させていただき、まだまだ若かった私は、そこそこの高順位で到着した思い出がある(2位か3位)、うれしかった。(しかしその後の稽古ではボロボロで、現役たちは平気そうだった)

 おそらく現役の学生たちには、私は謎の男と思われていたのではないかと思う。本当にお世話になった。ありがとう。

 近年、近くの岡山大学合気道部の学生の方々と稽古をさせていただく機会があった。体力では負けるかもしれないが、まだまだ若い者に後れをとるものか、という気概が私にはあった。しかし、その若者達のペースとスタミナはすごいもので、それだけではなく、素直で腰の落ちた粘りのある柔らかい動きは、私の体力を急速に奪い、私は相手のペースに呑まれていった。体は辛かったが、心は嬉しかった。良い稽古を積んでいる、頼もしいと感じた。学生合気道部はすごいのだ。

 そんな合気道を愛し楽しんでいる若者たちが全国にいることだろう、また、これから合気道に取り組んでみようと志を抱いていた若者もいるだろう。今、彼らはどうしているのだろうか?私が合気道を始めたころの自由さを想うと胸が痛い、今の若者にも同じようにあの青春時代の熱中を味わわせてやりたいと思う(そのためだったら、私はボロ雑巾のようになってでも、そんな若者たちの受けを取ろうじゃないか・・・100本!、いや50本、、、まず10本からで)。

 学校を卒業した元合気道部の若者たちの多くは、同時に合気道まで卒業してしまう。

 しかし、少数の方は、社会人になっても合気道を続けようと志す。

 今年度の新卒の方の中にも、そういった志の方はいる。しかし、この度の状況で、それもままならなかったはずだ。卒業式、卒業旅行、卒業パーティー、入社式・・・大きな人生の節目に我慢して耐えることしかできなかったのではなかろうか。

 実は、倉敷合気道会にもそんな新卒の元合気道部の若者が一人訪れてくれた。緊急事態宣言が解除されて落ち着くのを待って連絡をくださったようだ。仕事が忙しくなかなか稽古に来られない上に、稽古に来ても非接触の稽古ばかりなのでなんだか申し訳ないと感じるが、なんとか続けてほしいと願うばかりだ。

 合気道を続けるために大切なのは、合気道の魅力だ。

 私が若者だったころ(今でも若者のつもりだが)、まるで恋人に逢いに行く様に稽古へ行っていた。3度の飯より稽古が好きで、土曜日は夜まで殆ど何も食べずに朝昼晩1日中稽古をしていた。そんな私でも、「合気道の魅力は何ですか?」と尋ねられても一言で明確な回答ができる自信がない。

 合気道の魅力、何が人を魅了するのか?ということを、今一度真剣に考える時かもしれない。

 今、私に言えることは、合気道に集う人々が魅力的だったと想う、ということである。

 様々な年代、様々な仕事、様々な境遇の人が、道場では皆対等に立って稽古をする。夏場のしんどい稽古、冬場のこごえる稽古を共に過ごし、いつしかかけがえのない仲間と想うようになる。常に生意気で鼻につく若者であった私を合気道の人々は大きく包み込んでくれていた様に今になって気が付く。そんな土壌が合気道の世界には培われていたのだと思う。その土壌が、若者をのびのびとまっすぐに育んで来たのではないか(私はまっすぐか?そこは疑問だが・・・)。

 今、合気道を志している若者にも、その土壌で育つ権利がある。その土壌で育ててもらった私たちは、彼らに何ができるだろうか? (少なくとも、感染を拡大させないことが大事だということは、はっきりしている。)

 今日は夏の太陽の光の下で、蝉たちが限られた命の限り五月蠅いほど鳴いている。

~限られた青春の日々を、その情熱を合気道に注ぐことを望んでいる若者たちが、五月蠅いほど稽古をできるよう、コロナ禍収束という太陽の光が降り注ぎますように~

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