只管打坐(しかんたざ)、これは禅宗の曹洞宗で「ただひたすらに坐(すわ)る」ということだそうです。
座禅には、作法や流れといった型がありますが、大切なのは只管打坐することなのでしょう。
型は、只管打坐へ導くための準備体操の様なものと考えても良さそうです。
ところで、私達は、合気道の稽古を行っていると、いろいろとこだわりが出てきます。
例えば、手順や形といった型であったり、もっとこうすれば効くとか、こうすれば華麗な受け身がとれるといった技について、どうしても執着してしまいます。
型や技を追求することは、稽古を楽しくする要素の1つです。
ですので、型や技を工夫して稽古に活気を与えることは大切なことだと思います。
しかし、がんじがらめに固執した型をつくって、さらにはその型に他の人をはめ込もうとしたり、結果や効果ばかりを狙った技をつくって、技のレパートリーを増やしたりすることは程々にしたほうが良いと思うようになりました。
なぜなら、それらの取り組みは固さにつながると思うからです。
言い換えると、「正しい」を定義してしまうと、それは同時に「誤ち」を定義することになり、そこには既存の正誤が存在してしまい、試行錯誤を自ら続けて創造していく可能性を消してしまうことに繋がりかねないということです。
初心者の方によく見受けられるのが「これで合ってますか?」「間違っていますか?」という言葉です。
これはかっちりとした正解があると考えているからでしょう。ですので指導する側も仕方なく正解を作ってしまうのです。
実は数ヶ月前、思うところあって書道のひらがなの本を購入しました。
これまでの書の達人たちが書いた、あいうえお~のかなが、”あ”から順番に掲載されている本です。
”あ”1文字を見ても、達人ひとりひとりの”あ”はどれも違います。
しかし、どれもこれもとても素敵で「いいな~」と感じる書なのです。
同時に、ちゃんと”あ”と読むことができます(中には読めないのもあるのですが、それは源となる漢字が異なる場合等です)。
なぜこんな本を買ったかというと、書道の行書草書にも型がると聞いていたからです。
私にとって行書草書は、楷書という型から次第に離れていく過程であると考えていましたので、その行書草書まで型で縛ってしまっては如何なものかと考えていたからです。
しかし、この達人たちの書の違いを見て納得し安心しました。
それぞれとても個性的であるにもかかわらず、読むことができて且つ美しいのです。
”あ”という文字の型は、これほど柔軟でよいのだと考えました。
型を道路に例えるなら、現在地から目的地までの道のりが型です。
目的地が見えていれば型という地図は必要ありませんが、目的地がどっちにあるのか、どこにあるのかがわからないので、型という地図が必要なのです。
しかし、その型という地図が1つのルートだけであったり、道幅が非常に狭くて遊びがなかったりするといかがでしょう?
それよりは、道幅にゆとりがあって、いくつかの別のルートもあった方が良いと私は思うようになりました。
そのゆとりのある地図のなかで、その人なりにいろいろと行ったり来たりしながら遊び、時には新しいルートを創造することもあるでしょう。
そのくらいおおらかで良いと思うのです。
型は束縛そのものです。束縛することで、無駄な遠回りをさせないためのものと言えるでしょう。
ですのでいつまでもその型の束縛の中で安心していないで自ら殻を破ってさらなる自由を求める大胆さ、遊び心も時には大切です。
次に技というのは、型をなぞる中で出てくる様々な動きのことです。
道路をまっすぐ進む、右に曲がる、道路脇に立つ等など、道を歩いていてもいろいろな動きがある様に、より速く、より安全に、より楽に道を進むための工夫が技だと言えるでしょう。
しかしあまり技に固執してしまうと、たとえば、前方に右に曲がった道が見えた途端に「さて右に曲がる例の技をつかってやろう」などと狙ったり、やりすぎたりしてしまうことに繋がります。
これも固さです。技にこだわると、技に縛られることになるのです。
華麗な技、巧みな技には憧れるものですが、あの技この技という風に、何か別々の技がいくつもあるように認識することは危険だと思います。
「な~んだ、あの技もこの技も結局その根本は同じものが別の形で現れただけだったのか」と思えるような方向で稽古できると良いのではないかと思います。
合気道の稽古では、禅と同様に、型や技にとらわれず、只管打坐する様にただ動くこと、ただ道を進むことが大切だと思います。
しかしそこにはあまり悲壮感は漂わせず、遊び心をもって身体を遊ばせる程度のつもりで、寄り道や道草も楽しみながら歩ければ良いと思います。
不謹慎なようですが、型や技も遊ぶための道具であり、無邪気に遊んでいれば、自由に動けていれば、実はもう目的地に着いているのかも知れません。
そうなれば、目的地を目指したり探すことに執着がなく、自分自身が目的地(真理)に一致していると言えるのではないでしょうか。
虫や動物たちは、誰から教わったわけでも命令されたわけでもないのに、毎年同じような動きをとても几帳面に行っています。
個々の虫や動物にとっては生まれて始めてのことなのでしょうが、私達から見ると型といえる程狂いなく動いています。
蜘蛛は上手に網を張り、鳥は巧みに巣を作ります。
蜘蛛や鳥は、はじめから只管打坐できているのです。
私達も、蜘蛛や鳥たちのように、歩き、振り返り、座り、物を拾ったり、頭を掻いたりしています。
私達が生活の中で何気なく行っている所作にこそ、本当の型や技が潜んでいるのだと思わずにいられません。
近くに円通寺という禅寺があります。
この寺は、あの良寛さんが修行した寺として有名です。
(ちなみに私の師匠はこの良寛さんが大好きとのこと。)
良寛さんは、禅僧としてだけでなく、書の達人としても有名ですが、同時に子どもたちと無邪気に遊ぶ達人でもありました。
禅と書の達人は、遊びの達人だったのです。
「 天上大風 」 良寛
※大人に書を書くことを好まなかった良寛さんですが、こどもに頼まれて喜んでその子の凧に書いてやったという有名な書、子供たちの凧がよく上がる様に願いを込めたもの、ほのぼのとする話です。
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