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執筆者の写真田中 利幸

あの日の記憶

忘れるはずのない10年前の出来事ですが、私の備忘録として、あの日の私の様子をただ書いておこうと思います。


10年前の今日、2011年3月11日の金曜日は、次男が熱を出したため、私が次男を看病するために会社を休み、妻は出勤し、長男は保育園へ行っていました。

このころは川崎市のアパートに家族4人で住んでいました。

午後、次男に添い寝をしていると、強い揺れが起き、タンスの上の物が落ち始めたので私は咄嗟に次男に覆いかぶさり揺れが収まるのを待ちました。

揺れが収まってから次男を抱いて外へ出てみると、近所の方々も路上へ出てきて狼狽している様子でした。

心細さから皆が自然に集まっていると、また強い揺れが起きました。立っているとバランスを崩しそうな程揺れ、電信柱と電線が大きくうねり、停めてある車がガシャンガシャンと音を立てて揺れました。

アパートを見ると外壁の一部が剥がれて落下していました。

停電でテレビが付かず、携帯電話も通じなくなっていたので、この地震がどれほどの規模なのかわからないでいると、通りがかった人が、どうも東北の方で大きな地震が起きたらしいと教えてくれました。

揺れの強さから、震源地はもっと関東近辺だと考えていたので、東北と聞き驚きました。

その後も度々揺れが起き、近所の方が家からなかなか出ようとしないおばあさんを無理やりにでも家から引っ張り出そうとして悪戦苦闘していたので助けに行くと、私が次男を抱っこ紐で抱いていたのをその家の人が見て、あなたはお子さんを見てあげてください!と大声で言われてしまいました。

そうこうしている内に、長男を保育園へ迎えに行かなければと思い立ち、次男をベビーカーに乗せ、小雨が降り始めたのでベビーカーに防寒防雨を行い傘をさして保育園へ向かいました。とても寒い日でした。

大通りの交差点に差し掛かると警察官が中央に立って交通整理をしていました。停電の影響で信号が消えていたのです。街を見渡すといつもは明るいコンビニも真っ暗でした。

保育園に到着すると、園庭にはテントが設置されていました。長男の保育室へ行くと、保育士の方々がとても慌ただしく走り回って色々な準備をするなか、長男達は防空頭巾を被り、部屋の中央に集まって座った状態で、1人の保育士が紙芝居を読み聞かせしていました。

やっと長男が無事であることを確認でき安堵しました。子供たちを怖がらせまいと懸命に働いてくれている保育士の皆様は本当にありがたいと思いました。

家に帰る途中、先ほどのコンビニを覗くと、停電でも営業していることが分かり、非常食としてレトルトカレーやカップ麺等を買うことができました。懐中電灯と電卓でレジを行っていた店員さんに感謝の言葉を伝えました。

家に戻っても、再び揺れが来るのが怖く落ち着きません。停電で暖房ができず室内もとても寒い状況でした。

そこで、防寒着を目一杯着こんで靴を履いたまま室内で過ごすことにしました。

いつも妻が帰宅する時刻になっても妻は帰宅せず、連絡もつきませんでした。

子供たちに夕食を食べさせようと、非常用に持っていたカセットガスコンロを取り出して、レトルトカレーを準備しました。

今考えれば、室内で食べればよかったのですが、なぜかそれが恐ろしく、凍えながら玄関の外でカレーライスを食べた様に思います。

妻が帰宅したのが先か、停電が直ってテレビがついたのが先か記憶がありませんが、夜になって歩いてへとへとになった妻が帰宅し家族は安堵しましたが、テレビに映された津波の映像を見て想像もしていなかった大変なことが起きてしまったと気が動転したのを覚えています。

帰宅困難者という言葉が出てきたのはこの時で、息子が通う保育園では、親が迎えに来ることができず、保育園で1夜を過ごした子供たちがいたことを後で聞きました。

それから数日は、夜は玄関に近い台所に布団を敷いて、防寒着と靴を履いたまま寝ました。揺れで戸が開かなくなるのが怖くて、玄関の戸に物を挟んで半開きにして眠りました。

そして追い打ちをかけるかのように翌日には原発が爆発しました。チェルノブイリの事故を思い出し、絶対に起こしてはならない事故を起こしてしまったと思いました。

当時の職場があった横浜の高層ビルでは、隣のオフィスにあった外資系の会社が一夜にしてもぬけの殻となっていました。日本から脱出したらしいとのことでした。

間もなくして店頭からマスクが消え、関東域でも放射能物質のホットスポットが随所で見つかり始めました。

スーパーでは買占めが起こり、水のペットボトルの販売は制限される様になりました。

テレビでは毎日の様に、津波の犠牲になってしまわれた方々の人数やお名前、余震の情報、原発の状況や、原発内部はメルトダウンしているのか否かの議論等が放映されました。

あまりに被害の規模が大きいので、直ぐにはその規模を把握することすらできない状況になっていることを知りました。


その1年後の2012年3月11日に、我が家は岡山へ引っ越すこととなります。


あれから10年、今世界はコロナ禍にあります。しかし、今もなお津波の傷跡は残り、原発事故は終わっていません。


津波と原発の犠牲者のご冥福をお祈りすると同時に、被災した方々の1日も早い復興を願っています。


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