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執筆者の写真田中 利幸

『芸』としての合気道 ~囲碁の道に学ぶ~

 合気道に関する質問で、困ってしまうものに次の様なものがあります。


 ・合気道のどんなところが面白くて続けているのですか?

 ・合気道に試合が無いのはなぜですか?

 ・合気道の技は本当にあんなに簡単に掛かるのですか?


 などです。

 今回は、これらの質問に私なりにお答えする形で、表題の『芸』について触れたいと思います。 


 まず、合気道の特徴の1つでもある、試合が無いということをとりあげます。

 試合をしている会派もありますが、合気会では試合は行いません。


 なぜ試合を行わないのかという問いに対する答えの1つとして、次の様に答えることができると思います。


 「合気道は、勝敗よりも芸を重んじるからです」と。


 では「芸」とはなにか?


 囲碁の藤沢秀行氏はその著書「勝負と芸~わが囲碁の道~」の中で次の様に書いています。

 少し長いですが抜粋します。 


『しかし私には勝ち負けより、大切にしたいものがある。それを芸といっていい。私だって人一倍勝ちたい。だが勝ち負けだけじゃないぞと思う。

 同世代の梶原さんや山部君は、私の考え方と似ている。梶原さんはひたすら最善手を追い求め、勝つことなんかまったく念頭にないようである。勝つ為の妥協は考えず、最強手で相手を倒そうとするから、しばしば逆転負けを喫する。梶原さんにいわせると、勝負にこだわるのは不純であり、冠(タイトル)を取ったといって喜ぶ連中はアホということになる。梶原さんほど徹底はできないけれど、共感できる点が少なくない。山部君は相手のポカで勝っても不機嫌になる。それどころか、相手の悪手にくさって優勢な碁を投げてしまったことがあるとか。いい碁は二人でつくるものという姿勢がそうさせたのだろう。

 「勝つにこしたことはない。しかし碁は無限だから、強くなれば、勝ちは自然に転がり込んでくる。勝った負けたと騒ぐ前に、芸を高め、腕を磨くことを考えろ」と、私は口を酸っぱくして若い人にいっている。ニワトリとタマゴの話ではないが、勝つから強くなるのではなく、強くなるから勝つのである。しかし若い人でも、負けが込むと、何がなんでも勝たなくてはと思う。で、勝負にこだわって手が伸びず、勝てる碁も勝てなくなる。悪循環であり、勘違いもはなはだしい。腕を磨いておけば、いつかどんどん勝てるようになるといっても、分からない。こまったものである。』


 いかがでしょう、「勝つための妥協」・「勝負にこだわるのは不純」など意外な言葉が出てきます。同著には、囲碁の芸というのは、互いに最善手・最強手を出し合って名局を作り上げるものなのだ、ということも書かれています。


 私達の合気道でいえば、ウケとトリの2者が、互いに最善の対応を出し合って見事な型を表現するのだ、と言いかえることができそうです。

 何が最善なのかを書き始めるとそれだけでとても長くなってしまいますが、柔らかくて無理がなく、可能性があり、間が良い対応が最善なのだと思います。


 碁には試合があり、勝ち負けがありますが、合気道にはそれさえありません。

 碁には必要最小限のルールがありはしますが、とても自由度が大きく無限です。

 碁はそのような自由度の中で互いに全力でぶつかり合います。

 合気道も本来はルールは無いのですが、試合を行おうとするとある程度ルールが発生してしまうでしょう。

 ルールの無い試合は命の取り合いですので、めったにできるものではありません。

 ルールの有る試合ですと、勝ち負けにとらわれて「芸」を磨くということが無くなってしまうかもしれません。

 碁と合気道の大きな違いは、身体を使っているかどうかという点で、もしも合気道が碁の様に互いにやりあえば、とても身体がもたなさそうです。

 そこで、試合の無い合気道は、如何に日頃の稽古を行うかが大切になってくる訳です。

 試合ではなくて稽古だけれど、ウケとトリの1手1手が真剣で最善になる様に互いに努めてやりとりをしていくことができると良いと思います。


 ここで改めて『芸』とはなにか?


 『芸』とは芸術性すなわち『美』のことであると言えそうです。

 それも、意図して捏造したような美ではなく、結果的・必然的に現れる美です。

 自己と周囲環境(相手)との相互作用の現れのこととも言えそうです。


 少なくとも私は、合気道のこういった芸の要素が面白くて、25年程稽古していますが、未だに飽きることがなく、芸を追求して深めていくことを楽しんでいます。

 また、合気道の技は、それを拒もうとする相手には簡単には掛かりません。洗練されて純度が高いほどかえって、拒まれれば無力になるものです。特に稽古の場なら、互いに何をするかが解っていますので、拒むことは簡単です。その部分を理解するのが初心者だけでなく有段者でも難しいようです。時々、意地の張り合いや、はちゃめちゃな稽古を見かけるのはそのためでしょう。


 さて、稽古の話がでましたので、「教える」ことについて少し述べたいと思います。


 合気道ではいわゆる「教え魔」が問題になることがあります。

 その問題について、私は「教える代わりに最高のウケとトリで示せば良い」ということをこのブログ等で申し上げてきました。


 碁の世界で、先生が生徒に教える方法の1つに「指導碁」という方法があるそうです。

 指導碁では、先生と生徒が対局し、先生の巧みな誘導で、その生徒の力量に見合った勉強になる局面へと導き、生徒が正解に気がつくように誘導するそうです。

 また、プロは本筋しか打たず、プロ棋士による指導碁では、ひねった手やあくどい手を使えば勝てるときでも、アマチュア相手には本筋しか打たないそうです。

 その様な指導碁を打つには、先生には相当の実力がなければできないでしょう。


 合気道でも同様に、「指導ウケ」「指導トリ」ができると思います。

 只だまって真剣に稽古をしている様でいても、初心者の方等がその力を十分に発揮し、自らの改善点等に気が付き、互いの成長につながる様な調整を行うこと、余計なことはせず本筋だけを行うことができると良いと思います。

 その様な調整をする余裕もないのに、お喋りで指導しようとするのは身の程知らずといえるでしょう。

(ここで出てきた「本筋」だけを打つという考え方については別の機会に書ければと思います)


 『「三歳の童子たりとも導師である」と、私は若い棋士によくいう。その気になれば、アマチュアからも学べる。だから指導碁といえども軽く見てはいけないのだ。木谷先生はどんな指導碁でも手を抜かず、ふだんの手合と同じように時間をかけて打たれた。アマチュアに教えるというより、アマチュアから学ぶという姿勢があったのだと思う。』


 と同著に書かれています。


 私達も同様に、相手だけでなく自らをも指導できるような稽古への取り組み方ができるはずです。


 さて、私は、独学で碁を始めて1ヶ月程経ちました。

 碁に興味をもっている私の様子を見て、息子達も碁を打ちたいと言ってきました。

 最近私はレベルゼロのコンピュータに時々勝てる(9路盤)様になりました。

 気を良くした私は、2日前に息子たちに碁を教えてやりました。

 息子たちは夜中まで私と対戦し、私の強さを思い知りました。

 そして昨夜、息子たちが私にリベンジしてきました。


 そして私が負けました。

 

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