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執筆者の写真田中 利幸

『咄嗟(とっさ)』と『即興(そっきょう)』

 熱いものを触ってしまった時、私たちは『咄嗟』に手を引きます。

 その動きは、誰かに教わった訳でも、繰り返し練習した訳でもありませんが、とても素早く、おそらくは最速の動きで対応できています。

 それなりに上手に動けたということです。


 私たちが日ごろの稽古で行っている動きは、多くの場合、何をするのかが決められており、この様な咄嗟の動きを行うことはあまりありません。

 しかし、武道の出発点である無慈悲な戦いを想定すると、そこに起こる動きは、全て咄嗟の出来事となるのではないでしょうか。


 話は変わる様ですが、私たちは自転車に乗る練習を経て、自転車に乗ることができる様になると、何故自転車に乗れなかったのかが分からなくなります。

 自転車に乗っている時、私たちは、ほぼ無意識にバランスをとっています。小刻みで微妙な重心移動で、左右に倒れない様にできています。

 自転車の練習をする時、私たちは「重心をもっと右へ!」「次は左へ!」などと考えてはいないと思います。ただ何度も挑戦している内に気が付くと乗れる様になっているのです。

 この左右への重心移動は、教わる訳でも、意識して行う訳でもなく、自転車にまたがるという環境の中で自然に身につけていくのです。

 そして、できる様になると、できなかった時のことを忘れてしまいます。

 この重心移動もまた、咄嗟の動きだと私は考えています。


 「電光石火」「石火の気」という言葉があります。

 この言葉は、火打石を叩くことと、そこから火花が飛ぶことは、ほぼ同時に起こりますが、それほどの速さで対応するという意味で稽古の場でも語られます。

 この石火の気は、熱いものから手を引くこと、自転車でバランスをとることと根本は同じだと私は考えています。


 またまた話は変わるようですが、ベテランの役者は、その演技の中でいわゆるアドリブを行うことがあります。

 このアドリブは、タイミングと内容がその状況に合っていなければ成り立ちません。あれこれ考えたり狙ったりするのではなく、本当にその役柄になり切って、その人物が自然に行動している様に演じてこそ優れたアドリブになるのではないでしょうか。

 アドリブは『即興』と言い換えることができます。

 

 この『即興』も、さきほどの『咄嗟』も、タイミングと内容が状況に合っていることが大切です。

 このどちらも、意識したり狙ったりしてできるものではないと思います。

 そして、『即興』と『咄嗟』は、実は同じものであると私は考えています。


 自転車の練習と同様に、私たちは道場で、自転車にまたがる様に、合気道という環境に自身をさらし、『咄嗟の即興』が出てくる自己の状態を探っているのだと私は考えています。

 開祖が唱えた『武産合気』もこの『咄嗟の即興』と同じような意味だったのではないでしょうか。


 ベテラン役者のアドリブの様に、その場の状況にピタリと合う『咄嗟の即興』が出てくる状態が誰にでもあり、それは力を抜き、呼吸と姿勢を整え、無心になること、禅の様に行うことが大切であるということ、その状態は芸術的な体験であり、人生において素晴らしいものであることを、先人たちは伝えたかったのではないでしょうか。

 武道には色々な流派や型がありますが、もともとは自然の動きの中から『咄嗟の即興』のように産み出されたものだと私は考えています。

 

 自転車に乗れなかった時のことを思い出す様に、初めて道着を着た日の初心に帰りながら、日々の稽古を通じて、楽で自由な自己の在り方に至り、言葉だけでは伝えがたい、この文化的な財産を後世へ伝えていくことができれば素晴らしいと思っています。

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