合気道の稽古や、稽古後の飲み会などで、嫌な思いをしたという話を度々耳にします。
稽古で痛めつけてきたり、受けを取らなかったり、教えてきたり、不要に身体を触ってくる相手と当たったとか、飲み会でお酌を強要されたり、説教されたり、触られたり、誘われたり・・・色々なことがあるようです。
私自身、稽古場では色々と嫌な経験をしました。
しかし、もしかすると、私自身が加害者となって他者を苦しめていたことに気がついていない可能性もあります。
被害者でもあり加害者でもあり得るということです。
また、「受けを取ってくれない」という場合に、もしかすると「怖くて、痛くて、受けをとることができない」という理由が隠れている可能性もあります。
最近、思うところあって良寛禅師の本を読んでいます。
地元の玉島という地区にある円通寺というお寺が、良寛さんのお寺として有名で、子供の頃から遠足等で訪ねては良寛さんの話を聞かされていましたが、改めて良寛さんに触れてみたいと思ったのです。
さて、この良寛さん、ちょっと変わったエピソードが色々と残っています。
子供たちと一緒に本気で遊んでいたり、何かに夢中になると直ぐに我を忘れてしまったり、どんな嘘にも直ぐに騙されてしまったりするエピソードです。
そんな良寛さんは、地元(新潟)の人々にとても愛されていました。
良寛さんは、何か有り難い教えを説いて廻るということはせず、ただその生き様が人々を魅了していた様です。
では、人々は良寛の何に魅了されていたのでしょう?
それはおそらく、「無邪気さ」と「優しさ」ではないかと思います。
無邪気というのは、邪気が無いということです。
では、邪気とは何でしょうか?
これは私なりの考えですが、邪気の正体は
「他人に対して自分自身を高く評価させよう」
とする気持ちと、
「自分よりも他人を低く評価しよう」
とする気持ちではないかと考えています。
どちらにしても、自己の優位性を気にした瞬間に邪気が出るのだと思っています。
ということは、逆に、自己をいたずらに下に置こうとし、また、無理矢理にでも相手を上に置こうとすることも同じことだと思います。
自分と相手を秤にかけて、どちらかが上でどちらかが下ということを考えた瞬間に邪気が出るのではないでしょうか。
自らの内に潜む邪気を取り払っていくためには、自らと真正面から向き合うしかなさそうです。
合気道の技をより幽玄なものに深めていく上でもこのことは切っても切ることのできない事柄だと思います。
次に、「優しさ」についてです。
本当の「無邪気さ」は、本当の「優しさ」と表裏一体なのだと思います。
無邪気ゆえに自然と他者に共感して涙を流すのです。
この「優しさ」とは何かを考えると、それは
「かわいい」と感じる心、
そして、
「かわいそう」と感じる心
ではないかと思います。
これらの言葉は、自分が相手より優位であるときに使われる様に感じるかもしれません。
実際にそういう使われ方も多いと思います。
しかし、ここで申し上げたいのは、無邪気な慈悲の心と言うべきものです。
それは、生命をかわいいと感じ、かわいそうと感じる心のことです。
命は、そのどれもが、どこかしらかわいらしく、そしていつか、かわいそうになるのだと思います。
命そのものを愛おしく思い慈しむ心は、多くの動物達が生まれながらに持っているはずです。
この優しさは、自らの欲求を満たすことよりも、相手を庇うことを優先させることもあります。
利害関係や上下関係を超越した慈悲の心です。
セクシャル・ハラスメントは、自らの欲求を満たすために、相手を苦しめる行為です。
優しさを欠いた行為であると同時に、邪気があると言えます。
長年稽古をしていると、稽古相手の思惑が肌を通して伝わってくる様に感ずる時があります。
威勢にあふれていたり、怖じ気ていたり、疑心暗鬼であったり、何かそういった相手の状態や、腕試しをしよう、抵抗しようなどといった思惑が伝わって来る気がします。
「んっ、邪気があるな」
と感じるのです。それでも、「ああ、そうか」という程度にして、その感覚にとらわれ過ぎずにやり過ごすようにしています。
ここで、邪気があるというのは、言い換えると、相手の狙いを感じるということです。
なにかを狙ったりしている目的意識のことです。
投げさせまい、倒れまいとする目的意識、
投げよう、倒そうとする目的意識、
これらはすべて邪気だと思います。
より深く合気道を愉しむには、目先の小さな目的意識にとらわれることなく、大きななにかに身を任せる様に稽古することが肝心なのだと思います。
無邪気に優しい気持ちで稽古したいものです。
さて、良寛さんはその無邪気さと優しさゆえに多くの人から愛されました。
私にはもう一人、良寛さんに共通するキャラクターが思い当たります。
そう、寅さんです。
寅さんもまた多くの人から愛されて来ましたが、寅さんもまた無邪気で優しいように感じます。
その寅さんを演じた渥美清さんは、公私混同を非常に嫌い、殆どの関係者が、自宅や家族のことを知らなかったそうです。
自分自身に対する厳しさが、あの寅さんの名演を生んだのかもしれません。
寅さん名ゼリフ①
「ほら、いい女がいたとするだろう。男がその女見て、『あぁ、いい女だなぁ、この女を俺は大事にしてえ』そう思うだろう、それが愛ってもんじゃないか」
寅さん名ゼリフ②
「俺はな、学問つうもんがないから上手い事はいえねえけれども、博がいつか俺にこう言ってくれたぞ、自分を醜いと知った人間は、決してもう、醜くねえって・・・」
(寅さん名ゼリフ https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/scene/ )
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