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執筆者の写真田中 利幸

「対等」という厳しさ

 「対等」に扱うというと、何か優しくて思いやりがあることの様に感じるかもしれません。

 しかし、よく考えると「対等」であることはとても厳しいことだとも思えてきます。

 なぜならば、対等ゆえに互いに油断も隙も無く手加減も妥協もないからです。


 ゴルフ等はハンディキャップを用いた上で対等に戦います。

 囲碁将棋にもハンディキャップをつける方法があり、その上でプロVSアマであっても対等に全力で戦います。


 体格・知識・技量等の量に違いがある場合は、その量の違いをハンディキャップで埋めることができます。

 体重のようにハンディキャップで補うことが難しい場合はボクシングの様な階級制という方法もあります。

 いずれにせよ、競う対象の量以外の量をハンディキャップ等で同じにするという考え方です。

 その上で、「同じ権限」で戦うことが「対等」と言えるのだと考えます。


 「同じ権限」というのはスポーツやゲームであればルールのことです。

 相手も自分も同じルールで戦うという点で「対等」だということです。

 (※場合によってはスポーツ等ではルールを変更することでハンティキャップとする場合もあるかもしれませんが。)


 合気道には試合がなくルールもありません。稽古が全てです。


 私は合気道の稽古においても相手と対等でありたいと思っています。

 なぜなら、真剣で愉快な稽古を実現したいからです。


 初めから相手を自分の上や下に見て対峙したのでは、侮りや畏怖の念に囚われてしまいそうです。

 ですから真剣で愉快な稽古を実現するためには、相手が何者であってもシンプルに対等に立ち会うしかないと考えるのです。

 そしてその為には、スポーツの様にハンディキャップに相当するものが必要であるとも考えています。


 私にとっての稽古とは、相手を凌駕することでも、投げ飛ばすことでもありません。

 私にとっての稽古とは、自らを整えることと、相手と共に最高の芸を産み出すことです。

 そして最高の芸が現れる条件は、双方が全身全霊で創造力を発揮し、互いの力量が拮抗していることだと考えています。


 合気道の稽古において、互いの力量を拮抗させるセンスが、先のハンディキャップに相当するものです。

 具体的には、速さ・重さを調整することであったり、型の手順をゆっくり確認しながら覚えている段階の相手であれば、こちらも型の手順を今一度見直しながら、できるだけゆっくりと今の自分にできる最高の型を目指すというようなことです。

 しかし、常に自分を整えることや、常に隙の無い様にすることについては一切妥協しない厳しい態度で臨むのです。

 

 初めから相手を自分の上や下に見ている場合では、自分が相手の稽古に干渉する権限を持った気になったり、自らの稽古へ干渉してくる権限を相手へ与えてしまう可能性があります。

 「教え魔」や「教えられ魔」のことです。侮っている者には隙ができますし、依存したがる者は教えを待つことで動きが止まり固くなります。

 また、これらの状況では、対等ではない故に厳しさに欠け甘えが生じます。そしてそれは、真剣で愉快とは程遠い状況です。


 昭和の剣聖と呼ばれた持田盛二先生(剣道範士10段)は次の様なことを述べられています。

 

 「私は、初段の者がきたら私も初段と同じ様に、五段の者が来たら五段と同じ様に、九段の者が来たら九段と同じ様に、互角に使いたいと思っている。」


 



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