先日、横綱白鵬が引退を表明し、21年間の土俵人生にけじめをつけました。
彼の現役時代、横綱としての品格を何かと問われていたことが記憶にあります。
しかし、15歳で異国の地にわたり、どの相撲部屋からも相手にされなくとも、諦めずに食い下がったその情熱は素晴らしく、私には真似ができないと思います。
彼はとても稽古熱心で、「稽古をやれ」と言われたことは無く、逆に「やるな」と止められる程稽古をしていたそうです。
そんな彼の引退会見では、同じ趣旨の言葉が2度繰り返されたことが、私にはとても印象に残りました。その言葉を以下に抜粋してみます。
(1度目)
「大相撲を目指す子どもたち、そして若手力士がまず基本を大事にし、型をつくること。型ができたときに型を破ること。まさに“型をもって型にはこだわらない”。そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います。」
(2度目)
「先ほどと同じになると思うんですけど、基本を大事にして、まずは型をつくって、その型ができたときに型を破る、まさに『型をもって、型にこだわらない』。これができれば、必ず強くなっていくんじゃないかなと思います。相撲人生のなかで、たくさんの技を持っている人は1つも怖くなかったです、型を持っている人が怖かったです。」
いかがでしょう、『型をつくって、型ができたときに型を破る』 『型をもって、型にこだわらない』ということを繰り返しています。
これは、型の守破離と同様の意味で、守破離を繰り返していくことと私は理解しています。
稽古とは、型の創造と破壊の繰り返しであると言ってもよいでしょう。
また、『たくさんの技を持っている人は1つも怖くなかったです、型を持っている人が怖かった』という言葉にも感銘を受けました。
ここで注意しておきたいのが【技】という言葉の意味です。
ここでの【技】は【決まり手・得意技・手かず】と同様の意味でつかわれた言葉であると私は理解しています。
技という言葉も大切にしたいところですが、ここでの意味はこういうことだと思います。
そう考えますと、この発言は次の様に言い換えることもできます。
『たくさんの得意な決まり手をもっていたり、手かずの多い人は怖くなかったが、稽古で型の守破離を繰り返していて、その佇まいが「型なき型」となっている人は怖かった』
この「型なき型」は私の造語です。この意味は「これまでに制定された型ではなくても、その人が行うと新たな型として整っていて理にかなっている様」という意味で私は用いており、これは大先生の「武産(たけむす)」に通じるものと考えています。
話が変わる様ですが、巷にはいわゆる「ハウツー本」という書籍が無数にあります。
例えば『かっこよくなれる11の方法』といった題名の本です。
日頃からかっこよくなりたいと悩んでいた人には「11くらいならやってみるか」と思わせる題名です。
ある人がこの本を買って、11の方法を忠実に行ったとします。
そしてそれなりに、かっこよくなったとします。
その後、この人はどうすればよいのでしょうか、一生この11の方法から片時も離れずに過ごすのでしょうか。はたまた、新たな「ぜったいかっこよくなる17の秘密」とか「かっこいい人が必ずやっている23の習慣」とかいう題名の本を買ってさらに磨きをかけるのでしょうか。
では、その人が、そのようにどんなに努力をしても、なぜかあの人のかっこよさにはかなわないな、と感じている”あの人”がいるとします。
その人は考えるかもしれません「あの人はなにをやってもかっこいいな、あの人にはなにか方法や秘密や習慣があるのだろうか?あの人と自分の違いは何だろうか?」と。
ここで話を戻しますと、”その人”が身に着けて来たことは【決まり手・得意技・手かず】と同様のものです。それに対して、”あの人”は【型を持っている】ので何をやっても様になるのです。
ここに大きな『壁』があると私は考えています。
この武道の壁といえるものは、【決まり手・得意技・手かず】と【型を持っている】の間にある壁です。
【決まり手・得意技・手かず】は、相手を見て、何かを予想したり狙ったりしている状態です。
【型を持っている】は、自己を見つめて、自己の固さや乱れを整えつづけている状態です。
『相手ばかりを見ている』のか『自己を見つめている』のかが大きな違いであり壁なのだと私は考えています。
白鵬は言いました「本当に相撲が大好きで幸せ者です」と。
いろいろあったけれど、それさえ言えたなら良かったじゃないか、と思った私でした。
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