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権威について


私達の周りには、数えきれない権威があります。 たとえば、有名な芸能人も権威といえます。注目され、その一言の影響力が大きいのです。 武道なら、流派、段位、師範も権威でしょう。 広く見れば、国家、政党、宗教、学府、などなど権威となり得るものは無数です。 権威の特徴として、「従う」があります。 権威に従う。 これだけを聞くと、なんだか腹立たしいようですが、実は、権威に従うことで私達は安心を得ているのではないでしょうか? 権威に従えば、考える必要はなく、正しさを得られると感じる、それが安心につながっているのだと思います。 ところで、私達は、合気道の稽古の中で、どれだけの権威にさらされ、従っているのでしょう。 これは、個人個人の問題なのかもしれません。 しかしながら、今後の合気道をよりよいものにしていくためには、今一度正直に見つめるべき問題なのではないかと思っています。 合気道であれば、 有名な師範がこう言った、だとか 有名な師範はこうしていた、だとか 有名な師範の弟子だ、だとか 開祖はこう言った、 開祖はこうした、 開祖直伝 正当 伝来 などなど これらの表現の背景には、権威があると思います。 権威=正しい という論理です。 考えなくて良い、とにかく正しいのだから、したがっていれば良いということです。 もう少し砕けた言い方をすれば、虎の威を借る狐ということです。 また、俗にいうミーハーというのもそれと同じでしょう。 ここまで言うと過激でしょうか? 冒頭で、流派も権威の一つとして挙げさせていただきました。 ならば、同様に、型もまた権威となり得ます。 例えば、お箸の使い方には流派も、名前も特にはなく、それでも、どうもこの使い方が良いねというのが伝わっています。 創始者の名前も得にはありません。 これも、権威といえばそういう一面もあるかもしれませんが、比較的純粋な型といえるのではないでしょうか? いろいろな構えや、仰々しい名前をつけて、事細かに指摘する型は権威となるのに適しています。 それに対し、構えがなく、名前もなく、だいたいこんな感じだけど綺麗でしょうというのが、権威を超えた型なのではないかと思います。 私は自分が受け持つ稽古の場では、できるだけ、私の師匠の受け売りはしないように気をつけています。 私の師匠がこうしているのだから、これが正しいのです、という論法はしないということです。紹介することはありますが。 あくまでも、私の受け持つ稽古ですから、私の中から出てきた、私が根本まで説明できることを紹介するようにしています。 白状すると、私は、生来、権威に従うことがどうも嫌いです。正直にいうと大嫌いなのです。 そんな私が、一見、権威の塊のような武道界でながく居られるのは、本当に私が興味を持ち、面白いと思うことがあったからです。 少なくとも、今の私の師匠には、私が強く興味を持ち続けなんとか追いつき追い越したいと思う魅力があります。 また、師は、そのような私の稽古への取り組みを認めてくれているようです(おそらく)。 ですので私は、師匠と同様に、合気道の魅力を私のところに来てくださる皆様に伝えていきたいと思っています。 伝えたいのは、権威ではなく、面白さです。それが、とても難しいのですが。 権威は敬っても良いかもしれませんが、安心するために従い利用するというのはいかがなものでしょう。 武道は命がけのことをやっています。そんなことを権威にお任せするのではなく、自分自身の問題として、自分の意思で現していくのが良いと思います。 権威は正しく、それ故、正しい権威に従うという考え方で取り組んでいくと、必ずといって良いほど「嘘」「虚構」などが生じると私は感じています。 このことは、合気道の稽古での受けの取り方にも現れます。 これは「誠」ということとも関連します。 それゆえ、別の機会に、受けの取り方について、改めて書きたいと思っています。 宮本武蔵といえば、武道界の権威といえるでしょう。しかし、当時の武蔵はそれほど権威とされていなかったという話もあります。 その武蔵が五輪書を書く前に書いた兵法三五か条のなかに、「兵法上中下の位を知る事」という一条があります。 兵法に身構有り。 太刀にも色々構を見せ、強く見へ、はやく見ゆる兵法、是下段と知るべし。 又兵法こまかに見へ、術をてらひ、拍子能様に見へ、其品きら在て、見事に見ゆる兵法、是中段の位也。 上段の位の兵法は、強からず、弱からず、角らしからず、はやからず、見事にもなく、悪敷も見えず、大に直にして、静に見ゆる兵法、是上段也。 <田中訳> いろいろと構えを見せて、太刀の使い方もいろいろと構えていて、強さや速さに頼ってるのは下段です。 次に、細やかな技術を使い、リズミカルで、きれいで、良く見えて立派なのは中段です。 では、上段はどうかというと、強くも弱くもなく、角々していなくて、速くなくゆっくりで、見栄えはしないけれど、悪くも見えない、おおらかで真っ直ぐであり、静かに見えるのが上段の兵法です。 私が思うに、下段、中段の兵法は、権威となりやすいものです。分かりやすくて、凄そうなのです。 その様な段階、即ち、一時的に権威にとらわれる段階があっても良いですが、いつまでもそこに居座るのは、本当の道ではないと思っています。 やはり、上段の兵法を目指して、権威から離れてこそ、武道は面白いのだと思います。 やる気のある血気盛んな若い人たちと稽古をさせていただくと、そこには権威の影はなく、ただ情熱と興味が溢れています。 私も同様のつもりで稽古していますが、彼らに追い越されないように、今一度気張ってみようと思っています。 でも・・・・お手柔らかにお願います。


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