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執筆者の写真田中 利幸

いじめと武道教育


 この数日間で、学校でのいじめに関する話を幾つか耳にしました。

 複数の上級生が一人の下級生をばい菌扱いしていじめていたり、その下級生を助けた生徒をさらにいじめようとしたり、持ち物を奪ったり、体をつついたり、ひどい呼び方をしたりと、様々なきっかけや形態のいじめがあり、例を挙げるときりがありません。

 また、いじめの特徴として、大人が直ぐ側に居ても、そのいじめに気が付かないことが多いということ、いじめられている本人は、自分から親や大人へはなかなか相談できないでいるということを改めて実感しました。

 学校という密室が、いじめを増長させる環境要因となっているようですが、いじめの根本は、人をいじめてしまう人の心の中にあるものと思います。

 一方、中学校では武道教育が必須化されています。現場では、柔道や剣道の初歩の技術を指導しているところが多いのではないかと思われます。この武道必須化の狙いには、子ども達へ、いわゆる「武道の精神」を伝えるということがあるのではないかと思います。しかし、「武道の精神」とはいったい何なのでしょうか?

 武道はもともとは殺し合いの技術が発展したものです。殺し合いですので、相手を殺すか、自分が殺されるかという命の問題が出発点です。この点が、他の国語・数学・理科・社会などと大きく異なる点です。

 自分自身が生きるか死ぬか、殺るか殺られるかの状況に立たされたことを想定することが武道の土台であり、目の前に、自分の命を本気で奪おうとしている者が居て、逃げられない状況を想像することから武道は始まります。

 その様な状況下で、自分自身がどの様に立ち、振る舞うのかを真剣に考えていくのが武道の修業なのです。

 言い換えれば、「いつ刀を抜くのか」を迷わない為の修業です。

 一旦刀を抜いたら、どちらか又は双方が命を落とす事になります。

 勝負は鞘の内と申しますが、刀を抜くまでの自らの在り方、しかしこれ以上来るならば迷わず刀を抜く、という捨身の覚悟について日頃から心と体を以って自問自答し、感じながら考えていくことが武道の修業であり、その修業が武道の精神を培うのです。

 良いことではありませんが、もしも、学校にいる皆が刀を携え、無礼があれば刀を抜く覚悟があるとしたらどうでしょう。常に身近に生死を感じ、互いの距離感、即ち間合いについて敏感になるのではないでしょうか。不用意に、ズカズカと土足で他者の内面へ立ち入ることはできなくなるでしょう。

 現代では、本物の刀を持って歩くわけにはいきません、しかし「覚悟」という心の刀を持つことはできます。

 覚悟というのは、捨身の覚悟のことです。どこまで自分を捨てることができるのかということです。究極は自らの命さえ差し出す覚悟のことです。

 いじめを行う人は、この様な覚悟を持っていないにも関わらず、不用意に相手の間合いに土足で侵入しているのです。  相手が刀の鞘に手を掛けていることにも気が付かないかもしれません。少なくとも、いじめを行う人というのは、そのように鈍感な人なのでしょう。

 いじめを行う人は、都合の良い密室で、都合の良い人だけがいることを確認しつつ、いつでも逃げられるようにキョロキョロしているのでしょう。

 一方、捨身の覚悟を持った人は、どこであっても、誰が見ていても、やるべきことをやり遂げることに迷いはないでしょう。

 いじめを行う人の心は「卑怯」という都合の良い居場所に居付いているのです。残念ながら一度「卑怯」の味を知った人は、簡単にはそこから抜け出せず、人より優位に立つために、自分が上がるのではなく他者を落とすことや、自分を守るために自分が強くなるのではなく他者を攻撃することを繰り返してしまいます。自らの見栄や虚栄心を満足させる為に卑怯になっているのですが、そのことを認める勇気がなく変わることができないのです。(見栄や虚栄心の背景には自己肯定感の低さが関係していると思われますがここではこの話は置いておきます。)

 卑怯とは「勇気がなく臆病(おくびょう)なこと。また、振舞いが正々堂々としていなくて、いやしいこと。」です。

 少し表題から話が逸れる様ですが、いじめの現場での大人のあり方にも気になることがあります。

 大人達が、いじめを行った子どものことを「失敗してしまった」と表現することがしばしばあります。いじめをしてしまったことは失敗だったということです。次からは失敗しないようにしましょうねという意図が含まれているようです。

 しかし、失敗というのは、やろうと思っていた通りにできなかったことを失敗と呼ぶのであり、意図的にとった行動を失敗とは呼ぶのはおかしいと思います。ましてや、その根底に悪意があったのならば、それは失敗と呼ぶのではなく悪事と呼ぶのがふさわしいでしょう。いじめというのはもしかすると相手を死に追いやりかねない犯罪であるという毅然とした厳しい姿勢を大人も持ちたいものです。

 罪を憎んで人を憎まずと申します。子どもだからといって、罪の部分まで庇護してはいないでしょうか。人は憎まずとも、罪は切って捨てて見せることも時には大切だと思います。

 また、よくあることだと思いますが、いじめを行った子を大人がこっぴどく叱るということがあります。大声で怒鳴りつけたりすることです。

 そのようなことをしてしまうと、いじめを行った子は被害者意識を持ち、叱られたことで罪を精算したと勘違いする可能性があります。そうではなく、自分と向き合うことから逃げない様に、静かに淡々と導く必要があると思います。

 また、いじめられた子に対し、いじめた子から謝らせることを行いますが、「謝る」ということがどういうことなのかを大人がよく考えておかなければいけません。

 少なくとも、許してもらうために謝るという考え方は大間違いだと思います。許して欲しいというのは、いじめた側の欲望でしかありません。

 私が考える謝罪とは次のようなものです。

 まず、自らの罪な行動を認識し、自らの口で語ること。

 次に、相手に申し訳ないことをしたと、その行いを後悔すること。

 そして、なんとか傷ついた相手を少しでも救いたい、そのために自ら何かしたいと願うこと。

 その上で、自らの行いを悔いていることを相手に伝え、もうやらないと誓いを立て、自らを差し出すこと。

 これが謝罪なのだと思います。

 そこまで、自分を投げ出して、相手を救おうと真剣に謝った結果として、そのいじめた人自身も再生へと踏み出すのであり、はじめから自分が許されて助かるために謝る形を取るのは、その場しのぎの行為であり、きっとまた同じ悪事を働くことでしょう。

 もし、私や私の仲間に対していじめを行った人に私が言葉をかけるとするなら、厳しいようですが、次の様になるでしょう。

「謝ったからといって、あなたを許してはいませんし信じてもいません。これからのあなたの行動を見ておきます。次はありません。覚悟しておいてください。」

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