20代の頃、私は神戸に住んでいました。
年末のクリスマス前には岡山の実家へ帰省していたのですが、その途中に、姫路のとある施設を訪ねるのが常となっていました。
そこは退任したカトリック教会の神父が余生を過ごす施設で、淳心会レジデンスと呼ばれていました。
姫路駅で沢山のワインを買い込んでその淳心会レジデンスへ向かいます。
そこには当時二人の知り合いの神父が居て、お二人は私の幼少期に笠岡の教会でお世話になった方達で、私にとってはおじいちゃんの様な存在でした。
そこを訪ねると、「夕食を食べていきなさい」から「もう遅いから泊まっていきなさい」となることもありました。
到着すると、まず、泣き虫でお酒好きのペック神父のお部屋へ伺います。
ペック神父の部屋はパソコンやらプリンターやらでとても散らかっていて、その中に愛猫のミューが同棲していました。
このミューは私が幼かったころに笠岡の教会前に捨てられていた子猫でしたが、このとき20年近くの長寿でした。
その部屋で、ペック神父はパソコンを使って点字の翻訳をコツコツと行っていました。
私が持ち込んだワインをペック神父が選別し、自分用と他の神父へあげてもいいものに分け、早速1本目を開けます。
ペック神父と呑みながら一通り話したら、2つ隣のヴァンボーベン神父(ヴァンホーテ神父)の部屋に伺います。
この神父はペック神父の前任として笠岡の教会に居た方で、私にとっては大おじい様みたいな存在でちょっと恐くて緊張しながらのご挨拶です。
ペック神父には完全なため口の私でしたが、バンボーベン神父には敬語です。
ペック神父の部屋とは対照的に、とても質素で簡素な部屋の中央には小さな木の丸いテーブルと椅子があり、「そこへ座りなさい」と指示されます。
椅子に座ると「今、何を勉強しているか?本は何をよんでいるか?」と質問されます。
それで私が「えーっと、えーっと」となっているとテーブルの上に難しそうな本をバンッと置いて、「私は今これを読んで勉強しています!」とバンボーベン神父。
苦し紛れに「勉強っていうか、合気道やってます。教会へは行ってませんが道場へ行ってます」と私。
すると意外にも「合気道」という言葉に反応され、目を真ん丸に見開いて興奮気味に話し始めました。
それは昔、まだ戦後の混乱期、バンボーベン神父が日本に来たばかりの時の事。
ある駅で、外国人という理由で邪見にされて汽車にのることが困難で困っていた神父に、ある日本人の快活な男性が「おーい、神父さん、こっちへいらっしゃい!」といって汽車に乗るのを助けてくれたそうです。
その男性は「せっかく日本の為に来てくれている神父さんに大変な想いをさせて申し訳なかった、この日本は私が立派な国に建て直しますから待っててください!」と言ったそうです。
「その男は、『私は合気道をやっている者で、モチヅキだ』といった」と神父。
(モチヅキ?・・・!!!) 「養正館の望月稔先生に違いないです!」と私
神父は、その男の優しさと強さを「合気道」という言葉といっしょに覚えていたそうです。
この話を聴いて、私はなんだか誇らしくなったのを覚えています。
この話を聴いてから20年以上が経ち、二人の神父も望月先生ももう居ません。
誰も知らない、ささやかな出来事ですが、私だけが知っている素敵なお話だったので私が忘れてしまう前にここに書き残しておきます。
恐らく1946~1950年に戦後の日本のどこかの駅で起きた出会いの思い出話です。
<余談>
ペック神父が82歳で亡くなる2カ月ちょっと前、妻と私の挙式のために、師匠夫妻、両家の親、そしてペック神父で挙式前夜のディナーをホテルで食べました。
ペック神父は、神戸港を懐かしそうに眺めて、「もう何十年も前に、私が初めて日本に着いたのがこの港です」と教えてくれました(1957年)。
ディナーの後、ペック神父をホテルの部屋まで案内して、扉を閉めようとして、明日の起床時刻を聴き忘れていたのを思い出し、再び戸を開けて中を見ると、
ペック神父は早速、部屋の机の上に小さな祭壇の様な携帯用のお祈りセット?を展開してお祈りを始めていました。
ペック神父は泣きながらお祈りをしていました。
「どうしたの?」と尋ねると「あなたの合気道の先生が目の前に現れた時、とても怖かったのです。でも話をしてみると優しい良い方でした。」とのこと。
確かに当時の師匠は筋肉隆々で眼光鋭く、その上スーツでビシッと極めていたこと、ペック神父も「武道家=怖い人」の先入観があったかもしれないことが相まって怖かったのかもしれません。
でもよくよく話を聴くと、泣いている理由はそれではなく、嬉しかったから泣いていたようでした。
懐かしい神戸の港で安心できる人達に囲まれて過ごす時間が嬉しくて、泣きながら神に報告しようとしていたところだったそうです。
それはまるで、今日の嬉しかった出来事を、早くお母さんに聞いて欲しがっている幼い子供の様にも見えました。
長男は神父になるしきたりの地域で育ったペック神父。
日本に骨を埋める覚悟で母国ベルギーを離れ、神の子として生きた生涯。
その終わりに、「神父とは斯くの如し」といえる姿を見せて頂きました。
2人の神父が、それぞれ合気道家と出会ったお話でした。
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